『理念と経営』WEB記事
人とこの世界
2026年3月号
どうせ死ぬんやったら、これを一回、自分で作ってから死んだらええ!

とんこつラーメン店「ぶたのほし」店主 髙田景敏 氏
熱心なファンに支えられている「ぶたのほし」店主の髙田景敏さんは、“豚の命の輝き”を生かしきる味づくりのため、営業時間中もずっとスープ鍋をかき混ぜ続ける。しかし、こうも言う。「味だけが目的なら、ラーメンとお金の交換場所になってしまう」――波乱の絶えない半生を経てたどり着いた“生きる意味”と、店づくりの境地。
人生の成功は「お金持ちになること」?
アップル、スターバックス、ハーレーダビッドソンなど一部の企業は、顧客を一般的なカスタマーから熱狂的なファンに変えるブランド力を持つ。お客さんから、これらの企業と同列に語られるラーメン店がある。
2018(平成30)年1月、髙田景敏さんが50歳の時に開いた兵庫県尼崎市の「ぶたのほし」。「最大19時間待ち」の超人気店として知られる。
髙田さんは1年に数回、杯数限定でいつもと異なる具材を使ったラーメンを出す。SNSに告知されるその日の前日、ぶたのほしの営業が終わる15時から、お店の前にお客さんが並び始める。特製ラーメンを食べるために、一晩かけて翌日11時の開店を待つのだ。
ぶたのほしは、開業以来1日も行列が絶えたことがなく、普段も1、2時間待つのは当たり前。そこに並ぶお客さんの中には、ぶたのほしオリジナルのキャップやTシャツ、ジーンズを身に着けている人も少なくない。
1軒のとんこつラーメン店が、これほどまでにお客さんを惹きつける理由は何か? そこには「ラーメンとお金の交換場所になりたくない」という髙田さんの強い思いがある。
子どもの頃からある時まで、髙田さんは「人生の成功とはお金持ちになること」と信じて疑わなかった。不動産業を営み、ベンツやロールスロイスを乗り回していた父親からとても厳しく躾られた影響で、「絶対に親父を超えてやる」という反骨心を抱いていたのだ。
お金持ちという目標をかなえるために、最短距離を走った。学生時代から松下幸之助の著書などビジネス書を読みあさり、ビジネスサークルにも参加。大学卒業後、友人と立ち上げた化粧品販売会社で荒稼ぎする。2年でその会社が傾いたのを機に、携帯電話の販売代理店を始めた。「簡単に稼げた」というその事業も、通信会社側の事情で1年もせずに畳むことになると、高級和服、洋服、毛皮などの販売を手掛けるアパレル企業に就職。その会社で営業部長、営業本部長と駆け上がっていく。
「当時は、手取りで年収1500万円ぐらい稼いでいました。スーツもいっぱい買ったし、車もBMWの全種類に乗りました」
「もっともっと稼ぎたい」という欲望の火は、ますます燃え盛る。03(同15)年、35歳の時に、「最もお金持ちへの近道で、なおかつ親父と違う道を歩める」と高校時代から憧れていた株のトレーダーに転身。5年かけて、資産を3億円まで増やした。しかし08(同20)年9月、髙田さんが熱烈に求めた「成功」は一気に遠ざかった。リーマンショックで資産の9割を喪失したのだ。
脱力し、「もうええか……」と人生を手放そうとした髙田さんが、最後の晩餐の店として選んだのは、京都の「無鉄砲」総本店。豚骨と水だけで作る濃厚なラーメンに惚れ込み、当時、年間100杯は食べていたという。そこで愛してやまないラーメンを平らげた時、腹の底から込み上げてくる衝動があった。「どうせ死ぬんやったら、これを1回、自分で作ってから死んだらええ!」自宅に戻った髙田さんは無鉄砲の大将、赤迫重之さんに「働かせてほしい」と便せん3枚にわたって思いをつづった。その熱意を大将から認められ、時給850円のアルバイトとして働き始めたのは、40歳の時だった。
天職だと実感した日
09(同21)年6月、最初に勤めたのは奈良の大和郡山にある支店「豚の骨」。以後、つけ麺屋「無心」、大阪店を経て、10(同22)年、大和郡山に戻り「がむしゃら」( 元「豚の骨」)の店長に就くと、右肩上がりで売り上げを伸ばした。「5年働いてもスープに触らせてもらえない人もいる」中で異例の成果を上げたのは、天職だと感じるほど夢中になっていたからだ。
「最初の2年間は、毎日辞めたくて仕方なかったんです。……
開店直後から盛況の店内
取材・文 川内イオ
撮影 宇都宮寿輝
本記事は、月刊『理念と経営』2026年3月号「人とこの世界」から抜粋したものです。
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