『理念と経営』WEB記事

「あなたの肌のために」その思いは揺らがない

ユースキン製薬株式会社 代表取締役社長 野渡毅之 氏

オレンジ色のふたに、クリーム色の容器。中には黄色いクリームが詰まっている「ユースキン」は、手荒れを治すクリームとして根強い顧客層に愛されている。そのブランド力の源には、ユースキン製薬が大切にし続けてきた「ある思い」があった。

ロイヤルカスタマーに愛されてきた理由

ユースキン製薬の前身は、創業者の野渡良清さんが川崎市で開いた小さな個人薬局である。創業は1955(昭和30)年。71年前のことだ。

ある冬の日。1人の女性が「手荒れに効くクリームはありませんか」と店に来た。当時主流だったワセリンを基剤としたクリームを差し出すと、「これも良いけどベタつくので」と残念そうに買って帰った。その姿が心に残った良清さんは“ベタつかず手荒れに効くクリームを開発すれば、喜んでもらえるに違いない”と思ったそうだ。そうして2年後の57年に発売したのが、「ユースキン」である。

この開発物語は、全社員が共有しているという。「祖父の“一人のお客様のために”という思いが、わが社の原点なんです」。3代目の毅之さんは、そう話す。

――入社は2013(平成25)年です。おいくつでした?

野渡 28歳です。きょうだいは姉が2人で、男は私1人。だからいずれは会社を継ぐべきなのかなとは思っていたんですが、なかなか気持ちが決まりませんでした。

何か海外での仕事に関わりたいと思っていたこともあって、大学を出ると大手ベビー用品メーカーに就職して、願い通り海外事業部に配属してもらいました。そこに4年勤めた後、入社したんです。

――入社された時の会社の雰囲気や、ご自身で気づかれたことは何かありましたでしょうか

野渡 すぐに実感したのが、ロイヤルカスタマーが非常に多い会社だなということです。今はだいぶ減りましたけど、当時は毎日ユーザーからのアンケートはがきが届きました。中には分厚い封書もあって、「ユースキンに救われた」と感謝の気持ちが書かれているんです。

――商品の力ですね。

野渡 前職の時にも、先輩が私に「このリップクリーム、とってもいいよ」と当社の製品を勧めてくれたことがあったんです。先輩は、私の家業については知りません。その時も“うちの商品はすごいんだな”と思いました。このことも入社を決めた大きな理由の1つになったと思います。

――発売当初はあまり売れなかったと聞いています。

野渡 はい。クリームは白色という先入観が強かった時代で、黄色いユースキンを見て驚くお客様が多かったようです。あれはビタミンB2の色なんですよ。

――たしかにユースキンは濃厚なカスタードクリームのような黄色ですね。独特のスッとする匂いもします。

野渡 祖父や父たちは、とにかく使って効果を実感してもらおうとサンプルを取引先の薬局に置いてもらったり、直接お困り事の相談があったお客様に送ったりしていました。私も幼い時に家で父や母が小さなサンプル缶を袋に詰めている姿を何度も目にしています。

――使ってもらえばわかるという商品への自信を感じます。

野渡 ありがとうございます。成分の薬効はもちろん、なんといっても保湿力が違うんです。寝る前に塗ると朝まで保湿力が落ちません。グリセリンという成分で保湿するのですが、これは多く配合するとベタついてしまいます。それをベタつかないようにした。この技術がうちの商品を差別化したんです。

――類似の商品に比べてもグリセリンの含有量は多いんですか?

野渡 非常に多くて、40%入っています。この商品力と、お客様であるエンドユーザーと直接つながって困り事や悩みのお声、逆に感謝の言葉などを聞けること。これがうちの強みだと思っています。

創業家の決意を社員に示さなくては

2012(平成24)年4月。2代目で現会長の和義さんは、手狭になっていた横浜工場の閉鎖と、富山市への工場移転を決めた。

東日本大震災を経験したことから、海沿いにあった横浜工場の安全性を再考し、富山市には災害が少ないこと、伝統的に医薬品関連の資材メーカーや研究機関が多いこと、自然環境もよいことなどから、新工場の建設用地に選んだのだという。

新工場が本格稼動した16(同28)年には、リブランディング・プロジェクトも稼働させた。その意味でも、16年は同社の転機となった年だといえる。

――工場移転は現会長である先代にとって大きな決断ですね。

野渡 そう思います。新工場建設が動き出したのが、ちょうど私が入社する時期でした。会社の将来を見据え、製品の安定供給をしていく上でも父は、最新設備を導入した新工場の建設を決めたのだと思います。工場建設に投資した資金は当時の売り上げの半分以上にもなったようです。

――野渡さんは、自ら進んで富山に行かれたそうですね。

野渡 そうなんです。横浜工場を閉め、いよいよ富山への移転が始まると退社する社員が出てきたんです。ベテランの社員が何人も辞めていかれました。それぞれ家族や家庭の事情もあるし、富山に行くにはそれ相応の決断が必要なことはわかります。それを顧みずに転居を強いることはできませんが、会社にとっても富山移転を成功させないと大変なことになります。
それでオーナー家の決意を示すためにも、まず自分が富山に移住しようと考えたんです。社員だけに負担を強いてはいけない、と。

――なるほど……。

野渡 結婚したばかりで、私自身それなりに決意が要りました。でも、私が手を挙げることで、1人でも気持ちを変えてもらえることができればという思いでした。考えてみると、そのころから会社を継ぐ覚悟みたいなものが自分の中に芽生えてきたように思います。

――同時期にリブランディング・プロジェクトが発足しました。

野渡 はい。私もメンバーに入りまして、月2回の会議に富山から上京して出席していました。

――なぜリブランディングをやろうと思われたのでしょう?

野渡 長くパッケージなどのデザインを依頼していたデザイナーが亡くなったことがきっかけです。
当時、シェアが拡大したことで……


開発当時に配っていたサンプル缶

取材・文 中之町新
撮影 富本真之


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本記事は、月刊『理念と経営』2026年3月号「企業事例研究1」から抜粋したものです。

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