『理念と経営』WEB記事

「目の前の人を幸せにしたい」、 その気持ちがあるから輝ける

株式会社いも子のやきいも阿佐美や 運営代表 村田洋子(阿佐美やいも子) 氏

村田さんは、地域の人から愛される焼き芋屋さんだ。今でこそ生き生きと働いているが、若い頃は自分に自信を持てなかったという。挑戦し続けた先に見つけた〝自分らしく生きられる場所〞とは――。

家族を支えようと小さな背に重荷を

子どもの頃から30年弱、ずっとままならなかった人生を、焼き芋で一発逆転させた女性がいる。「生きていてもいいという自信がなかった」と振り返るのは、村田洋子さん。2005(平成17)年、28歳の時に一念発起して「阿佐美やいも子」の名称で焼き芋の屋台を始め、多い時にはひと月で300万円を稼ぐまでになった。

常連客だった男性と結婚し、2人の子どもにも恵まれた。今は家庭生活と屋台での販売を両立しながら、「焼き芋開業講座」も開き、希望者にノウハウを伝えている。書籍を出版し、テレビをはじめメディアにもしばしば取り上げられる焼き芋業界の有名人だ。

古本屋でたまたま移動販売に関する本を手に取ったことが、村田さんが焼き芋を始めたきっかけだった。この本に出合うまで、村田さんの人生は苦難に満ちたものだった。

村田さんは1977(昭和52)年、アルコール依存症の父と聴覚障害を持つ母の間に生まれた。家は古い小さなアパートで、部屋にはモノが溢れかえっていた。父は毎晩のように酒を飲んで暴れ、止めに入る母に暴力を振るった。

村田さんは、事情を知るアパートの大家や周囲の大人から「あなたがしっかりしないと」と言われて育ち、幼い頃から「私が頑張らなきゃ」と重い責任を背負い込む。母がご飯を炊き忘れた夜、怒って「外で食べてくる」と出ていった父を追いかけて、「ごめんなさい」と謝った。「私がちゃんとしてないせいだ」と罪悪感を抱いたのだ。その時、村田さんはまだご飯の炊き方を知らなかった。

19歳の時、両親が働いていた工場が倒産。不景気のなか、高齢の2人は再就職できず、村田さんがアルバイトをして家計を支えることに。郵便局の仕分け、警備員、カラオケ店の店員、飲食店のウエートレスなどいろいろな仕事に就いたが、どれも長続きしなかった。

「頑張って仕事を覚えようとするんですけど、一緒に働いている人の目やちょっとした一言がすごく気になっちゃうんです。それで緊張して、何度もミスをしてしまって。ずっと申し訳ないと思いながら、働いていました。うちはまったく会話がない家庭だったので、職場の人と世間話をするのも苦手で、当時は普通に生きていく自信がありませんでした」

取材・文 川内イオ
撮影 後藤さくら


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本記事は、月刊『理念と経営』2025年12月号「人とこの世界」から抜粋したものです。

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