『理念と経営』WEB記事

いまこそ大切にすべき「義理と人情」

宗教学者 山折哲雄 氏

親鸞の行年を超え、過激になった昨今の私

いまは「人生100年時代」と言われることもあってか、「90歳を過ぎた老人に話を聞きたい」という一定のニーズがあるらしい。今年の5月で94歳になった私のもとにも、原稿依頼や取材依頼が多い。

依頼する側としては、穏やかで心温まる話を期待しているのかもしれない。普通、人間は年を取るにつれてだんだん穏やかになると考えられているからだ。

しかしあいにく、私は卒寿(90歳)を過ぎた頃から、むしろ言論人として過激になってきた。「私の意見を読んだ人たちがどう思うだろうか」という遠慮や忖度が一切なくなり、思ったままを言ったり書いたりするようになってきたからである。言葉の枝葉を取り払い、物事の本質だけをズバリと言うようになってきたとも言える。

私が90歳を過ぎて過激になった理由は、実はもう一つある。むしろ、そちらのほうが主たる理由かもしれない。それは、あの親鸞の行年(没した年齢)を超えたことである。

私は宗教学者として幅広いテーマに目くばりしてきたつもりだが、その中で最も長い年月を費やし、いわばライフワークとして取り組んできたのは親鸞の研究である。そして、親鸞は鎌倉時代としては抜きん出た長寿で、90歳まで生きた。しかも、最晩年まで、書く物も行動も肉体も、ほとんど現役で活動を続けたのだ。

親鸞は老いてなお頑健な体を保ったのであり、いまで言う「健康寿命」が非常に長かったのだ。その意味では、約800年も前に生きた人間でありながら、親鸞こそ「人生100年時代のロールモデル」と言えるかもしれない。

さて、若い頃から長年親鸞研究を続けてきた私だが、「親鸞の行年を超えた」と意識した時から、親鸞と向き合う姿勢が大きく変わった。ずっとパッシブ(受動的)な姿勢で、"内なる親鸞"から投げかけられる問いに答えるように研究を進めてきたのだが、90歳を超えてからはむしろ、私から親鸞に問いかけるようなアクティブ(能動的)な姿勢になったのである。

抽象的な言い回しになったが、これは私にとって大きな内的転換であった。そして、その転換がいまの私の過激さの、一つの土台になっている。

聞き手・構成 本誌編集長 前原政之
撮影 丸川博司


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本記事は、月刊『理念と経営』2025年11月号「私はこう思う」から抜粋したものです。

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