『理念と経営』WEB記事

うなぎ文化を残すため、生き続けなければ!

株式会社鯉平 代表取締役社長 清水亮佑 氏

東日本大震災による数千万円の赤字と、ニホンウナギの絶滅危惧種指定――取引先の廃業が相次ぐ中、後継者の清水さんには「つぶせない」という信念があった。

経営と真剣に向き合うようになった“あの日”

鯉平は、1897(明治30)年創業の老舗の川魚卸問屋である。商品の9割を占めるうなぎの出荷量は、年間約800トン。日本でトップクラスの規模を誇る。

「川魚は死ぬとすぐ硬直して急激に悪くなってしまうので、生きたまま流通させなければならないんです」

5代目の清水亮佑さんは、そう言う。

主な得意先である、うなぎ専門店に午前中に届けるために朝が早い。始業は午前3時。だがそのぶん終業も早く、午後3時には会社を閉めるそうだ。

あの日。2011(平成23)年3月11日も、終業間際に大きな揺れに見舞われた。

「だいぶ長く揺れました。衝撃的だったのは外の砂利が砕けて地面から粉塵が上がっていたことです」

震源からはるかに遠いのに、それほど揺れたという。大学を卒業して大手証券会社に2年勤めて、前年に家業へ戻ってきたばかりだった。父は、業界の研修で韓国に出張中でいなかった。

「揺れが収まると、父に電話して状況を伝えました。とにかく“自分が何とかしなければ”と思い、まずは会社にいたみんなを駐車場に避難させたんです」

従業員たちの数を確かめ、家に連絡して家族の安否確認をするように言った。その後、早出のシフトですでに退社していた従業員、500軒ほどあった取引先すべてに電話し無事かどうかを確かめた。夜の11時頃までかかったという。

その日から3日ほど、幹部数人と仕入れの調整や配達をするために徹夜で会社に泊まり込んだ。

時間がたつにつれて、東北地方の太平洋沿岸の津波の様子、被害状況、福島第一原発の事故の詳細などがマスコミの報道で明らかになっていった。

首都圏では計画停電が始まり、自粛ムードが広がった。うなぎ専門店の客数も減っていった。鯉平の受注量は減り、経営が圧迫されるようになった。

「取引先のお客様の店で、うなぎの注文が1匹分減っただけでも合計で500匹近いうなぎが売れなくなるんです。これが毎日続くと何匹売れなくなるのか。一店一店からのお客様の注文がわれわれの売り上げになるということを改めて感じました」

結果的に、数千万円の赤字になった。そんな中で父とBCP(事業継続計画)策定に取り組んだという。最も留意したのは、停電になったときにどう電源を確保するかということだった。

「あの時、停電にならなかったことは幸いでした。停電になると、おけや水槽に入れている水が止まって魚が死んでしまい、廃棄するしかないんです」

震災を経験し、清水さんは後継者として経営について真剣に考えるようになった、と言う。父もまた、「これなら任せられる」と思ったそうだ。

「問屋業というのは、ただうなぎを売るだけじゃない」

東日本大震災で生じた赤字の手当てにようやくめどがついた矢先、新しい波が業界を襲った。13(同25)年にニホンウナギが環境省の絶滅危惧種に指定されたのだ。翌14年には国際自然保護連盟(IUCN)からも指定された。

取材・文 鳥飼新市
撮影 編集部


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本記事は、月刊『理念と経営』2025年10月号「逆境!その時、経営者は…」から抜粋したものです。

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