『理念と経営』WEB記事

届かなかった夢が 教えてくれたこと

柔道家/世界選手権金メダリスト 丸山城志郎 氏

「なるようにならないのが人生だと思います」。引退会見でこう述べた丸山城志郎さんの胸中にあったのは、五輪2連覇の宿敵・阿部一二三選手との激闘の記憶だ。真剣勝負のあらゆる辛苦を経験した柔道家は、自身の過去にある意義を見いだしている。

最強と戦うために最高の準備を重ねた

2025(令和7)年2月17日、柔道男子66kg級で活躍した丸山城志郎さんが、現役引退を発表した。

切れ味鋭い内股で知られ、世界選手権を2度制覇。しかし、悲願だった東京五輪、パリ五輪への出場はついに叶わなかった。同階級で4歳年下の”天才”、阿部一二三選手が、行く手を阻んだからだ。引退会見で丸山さん自身が口にした「結果に悔いはあるが、やってきたことに後悔は一切ない」という言葉が、その競技人生を的確に物語っている。

丸山さんは、15(平成27)年から23(令和5)年の間に、阿部選手と11度対戦(戦績は4勝7敗)。なかでも名勝負として語り継がれているのが、20(同2)年12月13日、たった1枠の東京五輪日本代表を決めるため、ワンマッチで開催された試合だ。柔道史上最長の24分間に及ぶ激闘の末、丸山さんは阿部選手に敗れ、五輪出場を逃した。

競技を離れた今、丸山さんは何を思うのか。話を聞こうと、彼の出身大学であり、今も稽古場とする天理大学の柔道場を訪ねた。

「初めて対戦して以来、阿部選手には強いライバル意識を抱いてきました」

と、丸山さん。鋭い眼差しと背筋の伸びた凛とした姿は、現役時代と変わらない。

「口を利いたことすらなかったのですが、対戦した時の印象から、彼ならここまでやっているはずと想像して、それを上回るようにトレーニングの量やメニュー、スケジュールを設定していました。阿部選手が、自分の行動全てを決める“物差し”でした」

引退会見では、「阿部選手のおかげでここまで強くなれたし、柔道人生が華やかなものになった」と、リスペクトを込めて感謝を語った。しかし現役時代には、阿部選手はあくまでも「打ち負かしたい相手」であり、「なんでよりによって同世代にこんな選手がいるんだ」という気持ちのほうが強かったそうだ。

「強くなること、勝つことで頭がいっぱいで、他のことを思う余裕はほとんどなかったんです。それくらい必死でないと、一線で戦い続けられませんから。阿部選手への心からの感謝の念が込み上げたのは、引退を決めてからですね」

「僕は考える前に行動を起こすんです」

「あの代表決定戦は、僕にとって、良くも悪くも人生を左右する試合でした」

現役時代を通して最もプレッシャーが大きかったのは、やはり阿部選手と戦った東京五輪日本代表決定戦の前後の数カ月間だという。

「試合前からよく血尿が出ていましたが、精密検査を受けても特に問題はなく、医師からは精神的ストレスが原因ではないかと言われました。妻は、僕がトイレに立つたびについてきて、『どう?』と様子をうかがうほど心配していました」

万全のコンディションで臨んだ代表決定戦だった。ギリギリの攻防が続き、実力は互角に見えたが、最終盤に技を決めて勝利したのは、丸山さんではなく阿部選手だった。必ず勝って東京五輪に出るつもりだったから、一時はどん底に突き落とされた。

しかし、丸山さんは諦めなかった。

取材・文 本居佳菜子
撮影 丸川博司


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本記事は、月刊『理念と経営』2025年9月号「僕らがどう生きるか」から抜粋したものです。

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