『理念と経営』WEB記事

倦まず弛まず、刀を打ち続ける

刀匠 松田次泰 氏

刀の世界では「鎌倉時代の刀」が名刀とされている。しかし、そのつくり方は江戸時代にはすでに途絶え、再現不可能になっていた。それを800年ぶりに再現させたのが松田次泰さんだ。

凛とした静かな輝きを放つ刀

思わず背筋が伸びた。自然と神妙な気持ちになる。緋毛氈(ひもうせん)の上に、柄(つか)が外された抜き身の日本刀が置かれている。その茎(なかご)の部分に「次泰作」と銘が切られていた。

一礼してから右手で茎を持ち、まっすぐ刀身を立てて姿全体を見る。ゆるやかに反った刀身は、凛とした静かな輝きを放っていた。1kgに満たないそうだが、ズシリと重く感じる。

左手に袱紗(ふくさ)を持って刀身を支え、刃を白熱灯の光に透かす。湧き上がる細かい雲のような刃文が刃全体に浮かんでいる。日本刀のことは何も知らない門外漢ながら、その美しさに驚いた。人を殺める禍々しさはまるで感じない。

「いま見てもらった刀。あれが平成8(1996)年につくった刀です」

子息の周平さんが刀を片付けてくれている傍らで、松田次泰さんがそう言った。

「鎌倉の古刀を再現された?」

「はい。その刀です」

国宝や重要文化財級の名刀は鎌倉時代のものに集中している。近代以降の刀鍛冶たちは誰もがその再現を目指したという。だがその技法は絶えてしまっており、多くが道半ばで挫折する。松田さんは、その鎌倉時代の古刀を再現させた人物なのである。

画家志望から日本刀の世界へ

「日本刀はほとんど美術品です。僕は日本刀は日本文化の神髄だと思っています。刀は武器として使われることは少ないんです」

戦国時代も武器として大いに力を発揮したのは弓や鉄砲、石、槍だったそうだ。では、なぜ武士たちは刀を常に帯していたのか。

「武器というより、精神的なものを求めていたのだと思います。刀は、生きる力、心の強さを与えてくれるものとしてあったのです」

だから、日本刀には突き抜けた機能性と精神性、そして美術性が求められてきた、と話す。

「美術性があるからこそ、僕は刀鍛冶の世界に入ったのです」

松田さんは北海道北見市の生まれである。戦後間もない頃だ。子ども時代から絵がうまく、周りからも「絵描きになれ」と言われてきた。北海道で美術を学べる唯一の大学だった北海道教育大学に入学した。だが、そこは画家になるための学校ではなかった。

1年休学して上京し、東京藝術大の受験のため予備校に通った。しかし、芸大には合格できなかった。西洋画を突きつめるには本場に行くしかない。だが公務員の家庭では欧州留学など経済的に無理だった。

そんな松田さんの脳裏に浮かんだのが、東京の博物館で何度も見た刀だったという。日本刀の本場は日本だ、なら極めることができるのではないか。そう思った。

北海道教育大学を卒業した松田さんは、長野に住む人間国宝の刀匠である宮入行平師の門を叩き、一番弟子の高橋次平さんに師事した。24歳だった。

「炭切り3年、向こう槌8年」といわれる刀鍛冶も、体で覚える職人の世界だ。多くの弟子は高卒で入門する。6年も差があった。

「僕はそのハンディを『考えること』で埋めようと思ったんです」

仕事が終わった夜、普通、内弟子は鍛冶場を借りて鉄を打つ。しかし、松田さんはそれをしなかった。名刀の写真集を接写してつくったスライドを原寸大で壁に映し、刃文や地肌の模様を暗記するほど見続けた。それは芸大受験時に学んだ手法だった。そうして名画の技法を学ぶのだ。

「親方に『お前は頭で刀をつくるのか!』とずいぶん怒られました」


日本刀のグリップ部分である「茎(なかご)」に作者名が刻まれている

取材・文 鳥飼新市
撮影 伊藤千晴


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本記事は、月刊『理念と経営』2025年8月号「伝統を未来につなげる」から抜粋したものです。

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