『理念と経営』WEB記事

心一つに、縁を大事に “いい会社”を目指す

丸和運輸株式会社 代表取締役社長 藤本智治 氏

「経営を担うと決意してから、人間的に大きく成長できた」――藤本社長はそう話す。債務が積み重なり、社内の膿が噴出していた苦境をどう乗り越えたのか。

「いつ倒産してもおかしくない」それでも父を支えたかった

太平洋戦争が始まる1941(昭和16)年、祖父の利平さんがリヤカー1台から始めた運送業が、丸和運輸の前身である。3代目の藤本智治さんが子どもの頃は会社と自宅が同じ敷地内にあり、学校から帰ってくると手の空いていたドライバーがキャッチボールなどをして遊んでくれていたという。

「だからでしょうか。私の目には会社を継ぐという将来像しか見えていなかったんです」

大学を出ると、父の元一さんに言われるまま静岡の運送会社で2年修業を積み、帰ってきた。89(平成元)年のことである。25歳だった。

ある特殊鋼の専門商社から資本提携の申し出を受け、丸和運輸が大阪から全国進出に向けて羽ばたこうとしていた時期だった。関東や東北にも営業所を設け、トラックの台数も社員も増やしていった。

「7割がその特殊鋼の商社からの荷物になり、売り上げは伸びました。でも、利益が出なかったのです」

その商社との契約の内容に問題があったのだろうと、藤本さんは言う。しかし、当時は一社員に過ぎなかったので詳しい中身まではわからなかったそうだ。

92(同4)年の1月決算で、売り上げは全国進出をする以前の倍、9億円を超えた。だが、その年バブルが弾けたのだ。特殊鋼の商社は経営方針を転換し、関東の主要な物流センターの閉鎖を決めた。

「それに伴って、当社も関東や東北にあった営業所を順次閉めていくことになりました」

父は再び関西エリアに集中して、新しい取引先を開拓することで経営の立て直しを図っていた。売り上げは徐々に上向いていったのだが、利益が出るまでにはいかず、債務が積み重なっていった。

そんな頃、配車係の指示通りに動かないあるドライバーと面談しようとした父が、解雇の通告かと勘違いしたドライバーに刺されるという事件も起こった。

「一番苦しい時期でした。会社の中にたまっていたいろんな膿が噴出していたのだと思います」

父は、自分の給料はゼロにし、私財も投入して債務の補填に充てていたが、赤字の解消には程遠かった。積み上がった債務が3億円を超えた頃、取引先の銀行から「いつ倒産してもおかしくない。これ以上融資は続けられない」と言われるまでになった。

「私も父に付き添って何度も銀行に行きました。銀行で頭を下げて一生懸命に財務内容を説明する父の姿は、今も忘れられません」

96(同8)年のある日のこと。50人ほどになっていた社員を集め、父が頭を下げ涙ながらに給料の一部カットとボーナスの遅延を訴えたのだった。

「誰一人辞める社員はいませんでした。父の訴えに心を一つにして再建を誓ってくれたんです。私は、社員のみなさんの思いに感激しました」

藤本さんは、このとき本気になって父を、そして丸和運輸を自分が支えていこうと決意した、と言う。

取材・文・撮影 編集部


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本記事は、月刊『理念と経営』2025年6月号「逆境!その時、経営者は…」から抜粋したものです。

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