『理念と経営』WEB記事

“喜び”の一端を担い、社会を支える

株式会社野村運送 代表取締役 野村孝博 氏

きめ細やかな経営で、きらりと光る社員たちが活躍する株式会社野村運送(埼玉県入間市)。そこには野村孝博社長の学生アルバイト時代に培った“吉野家流”のノウハウが生きている。

小さな仕事を大事にしてきた

埼玉県を経由して、東京・多摩の八王子と群馬の高崎を結ぶJR八高線。かつては貨物列車が頻繁に走っていた路線である。そんな八高線の金子駅前に野村運送の本社はある。

創業は1931(昭和6)年。現社長である野村孝博さんの祖父・幸三さんが鉄道貨物の荷役会社を始めたのだった。戦後、トラック運送に転換した。

「小学生の頃は自宅の横に車庫があって、よくドライバーさんたちに遊んでもらっていました」

野村さんは、そう話す。大学を出て中堅運送会社で5年働き、父の代のときに野村運送に入社した。2002(平成14)年、28歳だった。

運行管理者の資格を持っていたので、すぐに配車担当になった。配車担当は会社の全体を見られるポジションでもある。

当時、トラックの数は約100台だった。

「なんとか100台にしたいというのが父の目標だったようです。トラック協会の仲間の会社に行くと30~40台のところが多いんです。父は頑張ったと思います」

だが問題もあった。同じトン数のトラックなのに長さが統一されていない。たとえば4トン車でも6.2メートルのものと5.8メートルのものがあるという。そうした長さの違う車が混在していたのだ。

「4トン車1台という依頼がきて、短い車を回すと『商品が積み切れない』と車両の変更を要求されることがよくありました」

トラックの台数が多い分、それらを稼働させるために安い仕事も請負わざるを得ないという弱みもあった。しかし、自社の強みもわかってきた。1社依存ではなく数多くの取引先を持っていることだ。

「これは、いただいた小さな仕事を大事にしていた結果だと思います。小さな仕事でも誠実にやっていれば“化ける”ことがあるんです」

たとえば、老人ホームへのリネン配送は1台から始まったのに、やがて20台が動くようになったという。

吉野家流を参考に社内の仕組みを改革

野村運送には、創業者の祖父が掲げた理念がある。「みんなで築いて、みんなで豊かな暮らしをしよう」「みんなで、いつもお客様に認められる仕事をしよう」だ。

野村さんが社長に就任したのは、2009(同21)年である。

「利益も出て、ドライバーさんも喜んで、労働時間も基準通りで交通事故のない、そんな健全な会社にしたい。そう思いました」

理念はそのまま踏襲し、そこから出発しようと決めた。

「私の思いと合うし、これを変えると会社がぶれると思ったんです」

だが1つだけ、理念にある「豊かな暮らし」をする「みんな」とは、会社ではなく社会のみんなだ、と社員たちに強調している、と言う。

野村さんは大学時代、ずっと牛丼の吉野家でアルバイトをしていた。大学では経営工学を専攻したのだが、「バイトで学んだことのほうが役立っています」と、笑う。

あながちそれが冗談ではないのは、『吉野家で学んだ経営のすごい仕組み』(合同フォレスト)という著作があることでもわかる。

「もちろん吉野家の仕組みのすべてが当てはまるわけではないのですが、大きなヒントになりました」

その1つは商品構成のシンプルさだ。いまは吉野家も数多くのメニューを提供しているが、かつてはじつにシンプルだった。

野村さんがシンプルにしたのはトラックである。配車で迷わないように、トラックを買い替えるときに2トン車、4トン車、7トン車、10トン車と、それぞれの荷台を一般的な長さに揃えたのだ。

取材・文・撮影/編集部


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本記事は、月刊『理念と経営』2025年2月号「企業事例研究2」から抜粋したものです。

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