『理念と経営』WEB記事
企業事例研究1
2025年1月号
品質は揺るぎなく 変化は柔軟に

株式会社松栄堂 代表取締役社長 畑 正高 氏
300年ほど前の創業から、お香作り一筋に歩む松栄堂(京都市中京区)。情報化社会が加速するなか、畑社長は歴史を訪ね、自社の価値を再確認していた――。
戦後、父が企業化した香老舗を受け継いで
6世紀、仏教と共に日本に入ってきたお香。「『源氏物語』の時代に、京都で四季折々を彩る多様な香りとして発展してきたんです」と、お香の老舗・松栄堂12代目の畑正高さんは言う。
江戸時代になり、さらにお香を細く伸ばす技術が伝来しお線香ができたことで、お香が庶民にも身近になった。「お線香に火を点けて火種として簡単に運べるし、燃える時間を時計代わりにできる。私はお線香で一種の生活革命が起こったと思っています」
松栄堂の創業は、まさにそんな江戸期の宝永年間だった。
――300年を超える老舗です。いまでは企業理念にもされている、口伝の家訓がいいですね。「細く 長く 曲がることなく いつも くすくすくすぶって あまねく広く世の中へ」。
畑 お線香の姿そのものです。その姿が私たちの商いの姿であるように、という願いです。
――戦後、お香は生活必需品ではないということで、商売も大変だったと聞いています。
畑 戦前は問屋さんに卸していたのですが、戦後になると、問屋さん頼りでは思うようにお客様に届かなくなりました。そこで、父は自分たちで販売店を開拓しようと考えたようです。父と同じように戦争から帰ってきた人が3人ほどいて、手分けして全国の仏壇仏具屋さん、和装呉服やお茶道具の専門店などを1軒1軒開拓していったと聞いています。
――原料も直接仕入れるルートを開発されたそうですね。
畑 はい。昭和30年代後半くらいからは中国広東省で春・秋に行われる見本市に招待されるようになり、帰りには香港に寄って東南アジアの華僑ネットワークの人たちとも信頼関係を築いていました。お香の原料は日本では採れませんから、原料の調達は私たちの生命線なんです。
――先代が松栄堂の企業化を進められたわけですね。
畑 そう言えます。私は長男でしたから、父の姿を見ながら、家族や周りの人たちの“跡取り”という期待のなかで、「将来は会社を継ぐんだ」と素直に思っていました。
――入社されたのが、1977(昭和52)年。まず本社2階の「香房」で、お線香作りに携わられます。
畑 父が「うちはもの作り会社や」という考えでした。職人さんに教えてもらい、竹べらを手にお線香を作っていました。そのうち、この先輩たちの目が黒い間に機械化しないとだめやな、と思うようになったのです。右肩上がりの時代で、仕事はどんどん入ってきていましたから。
――手作りでは間に合わない?
畑 そうです。汚れ仕事の大変な現場です。このままでは誰もこの仕事に入ってこないやろなと思いました。ただ、機械で作っても品質は変えたくない。そのためには職人さんに「機械でもええもん作れるやん」と言ってもらうことが必要やと思ったんです。父と相談しながら、工場の完成まで10年かかりました。
――何が変わりました?
畑 工場で商品を安定して作れるようになり、本社の香房では手作りの高級なお香とじっくり向き合えるようになりました。
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取材・文 中之町新
撮影 丸川博司
本記事は、月刊『理念と経営』2025年1月号「企業事例研究1」から抜粋したものです。
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