『理念と経営』WEB記事

夫・力道山の遺志を継ぎ、凛として生きる

力道山夫人 田中敬子 氏

21歳で嫁いだ夫を、たった半年で喪った田中敬子さん。5つの会社を継ぎ、経営者として苦闘を続けた。亡き夫の思いを背負い続けた、60年の軌跡――。

力道山が目の前で流した、2度の涙

戦後間もない日本で、得意技「空手チョップ」で大活躍し、国民的英雄となったプロレスラー・力道山――。2024年11月14日には、生誕100周年の節目を迎えた。

佳節の年にふさわしいベストセラーとなったのが、ノンフィクション作家・細田昌志氏の著作『力道山未亡人』(小学館)だ。第30回「小学館ノンフィクション大賞」受賞作であり、タイトルのとおり、力道山夫人・田中敬子さんの半生を描いている。

JAL(日本航空)のスチュワーデス(現・キャビンアテンダント)をしていた田中さんが、力道山と初めて言葉を交わしたのは、国際線のファーストクラスの中だった。

「あいさつをしたら、『あなた、田中敬子さんですか?』と言われてビックリしました」

共通の知り合いを介して田中さんの写真が力道山の手に渡り、「結婚相手にどうか?」という話になっていたのだ。力道山のほうは一目惚れだったが、田中さんはそのことを知るよしもなかった。

「座席でお酒をたくさん飲んでいたので、『お強いんですねえ』と言ったら、『いや、僕はホントは強くないんだよ。君だけに言うけどね、じつは飛行機が怖いんだ。それで(恐怖をごまかすために)つい飲んじゃうんだよ』と言っていました」

テレビで見る「強い男」のイメージとは裏腹の言葉に、田中さんは好感を抱いた。

「じっさい、お酒はあまり強くなかったですね。飲み比べをしたら私のほうが勝ったくらいですもん(笑)」

そこから交際が始まり、1963(昭和38)年6月に力道山と結婚したとき、田中さんはまだ21歳だった。

結婚に至るまでに、田中さんは2度、力道山の涙を見た。1度目は、叔母と2人で力道山の自宅を訪問し、正式なプロポーズの申し込みを受け入れたときだ。田中さんが「よろしくお願いします」と頭を下げると、力道山は何も言わずに席を立ち、隣の部屋に行った。

「なかなか戻ってこなくて、叔母が『心配だから見ていらっしゃい』と言うから、隣の部屋に行ってみたの。そうしたら、そこで肩を震わせて泣いていたんです。『どうしたんですか?』と聞いたら、『あんまりうれしくて、泣けてきたんだ。でも、涙は見せたくなかったから』って……。その言葉を聞いて、私も一緒に泣いてしまいました」

もう1度は、婚約会見のあと、朝鮮半島出身という出自を初めて田中さんに打ち明けたときだった。

「ああ、そうだったんですか。でも、私はあなたが好きで結婚するんですから、そんなこと、なんとも思わないですよ」――そう言った瞬間、力道山は大粒の涙を流したという。その涙の背後に、それまでに受けてきた差別の苦しみが透けて見えた。

「世間に流布していたイメージよりも、ずっと繊細で純粋で、優しい人でしたね」

田中さんは、力道山が国民的英雄だからではなく、“鎧(よろい)”の下に隠したピュアな部分に心惹かれて結婚したのだ。

取材・文 前原政之(本誌編集長)
撮影 鷹野晃


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本記事は、月刊『理念と経営』2024年 12月号「人とこの世界」から抜粋したものです。

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