『理念と経営』WEB記事

父のつくった会社を人々に愛される会社に

株式会社小嶋工務店 代表取締役社長 小嶋智明 氏

バブル崩壊と震災……家業に吹く逆風

2025年、創業60周年を迎える小嶋工務店。創業以来、東京の西郊・小金井市に本社を置き、地域に密着して注文住宅の建築、販売を行ってきた。

3代目の小嶋智明さんが入社したのは、1995(平成7)年1月7日、27歳のときだった。大手住宅メーカーで営業をしていた小嶋さんが、「いくら働いても給料が上がらない」と愚痴を言ったら、創業者で父親の算(かずえ)さんが「うちに来い。倍は出す」と言った。それが入社のきっかけになったそうだ。

ところが、入社した10日後に阪神・淡路大震災が起こった。多くの家屋が倒壊した映像がニュースで流れ“木造住宅は弱い”という印象が定着した。

「バブル崩壊で住宅メーカー同士の低価格競争が激化していて、その上に大震災です。給料の話は、どこかに消えてしまいました」

当時の売り上げは約30億円。それが震災の翌々年には半減した。社員が110名ほどいて固定費や販管費だけで8億円は必要だったという。いくら営業に力を入れても借入金は増える一方だった。

98(同10)年には、銀行からの借り入れが16億円にふくらんだ。父が幹部を集めて、「会社を畳む」と話すまでになった。

「倒産は避けたいと懸命に動き回って、取引会社からの出資を受けることができたんです。父は会長になり、設計部長だった兄が社長になりました」

兄は「いいものをつくれば売れる」という方針を貫いたそうだが売れず、借入金はさらに膨らんだという。

「私は、何が“いいもの”なのか、その基準が明確でないとお客様はわからないと思っていました。数字で説明できるような根拠がないと伝わらないんです」

2年も経たずに兄は会社を去り、再び父の算さんが社長に就いた。営業部長という立場にいた小嶋さんは、その頃から“自分が会社を変えなければいけない”と本気で思うようになった、と話す。

やがて常務になり、営業だけではなく会社の資金繰りも真剣に考えるようになった。つらかったのは会社の改革案を役員会に提出しても、出資会社から来ている役員たちに否決されることだったという。

「一人また一人と私の考えに共感してくれる人を役員にして役員会の構成を変えていきました。その一方で銀行に融資のお願いに回る。いまは笑っていますが、当時の私は“人間の顔”をしていなかったと思います」

金と人間関係という、2つの地獄

その苦しい時期を小嶋さんは「地獄」と表現する。地獄は2つあった。1つは金の地獄である。返さなければならない借入金の利息だけでも、年間で8000万円を超えていたそうだ。そのなかで月々の資金繰りもしていかなければならない。

「たとえば会社にお金が70万円くらいしかないのに、10日の支払い日には1億数千万円必要だと、毎月がこんな感じです。必死で集金に回り、銀行にも頭を下げて回る。毎日がイライラのピークでした」

銀行の担当者から指を差されて、こう言われた。

「あなたは不良債権なんだよ。自覚してください」

小嶋さんは何かの時のために銀行との折衝はいつも録音していたという。この言葉も録音した。

「まだ30歳半ばの若い頃です。自分を奮い立たせるために、何度も聴き直しました」

まさに臥薪嘗胆である。経営計画書など書類を山ほど用意して飛び込みで金融機関に行っても、一瞥されるだけだった。支払いを滞らせないために自分の貯金を崩し、時に高金利でも頭を下げて借りた。もう1つの地獄は、人間関係の地獄だった。

「業者や株主、社員たちに、たかだか30歳半ばの若造がガッと責められるんです。そこを踏ん張って、一人ひとり諭していかなければいけないし、場合によっては切らなければならないこともありました。生き残るために、いろんなことをやりました」

取材・文・撮影 編集部


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本記事は、月刊『理念と経営』2024年 11月号「逆境!その時、経営者は…」から抜粋したものです。

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