『理念と経営』WEB記事

熱く“いこる”ところに人も情報も集まる

株式会社タテイシ広美社 代表取締役会長 立石克昭 氏

「総合情報伝達企業」として、2021年の東京オリンピック会場をはじめ、電光掲示板やデジタルサイネージなど、さまざまな「看板」を手がけるタテイシ広美社。コロナ禍には、本業とは異なるアクリル板パーティション事業で危機を乗り越えた。臨機応変に事業に挑む同社の経営理念とは。

「経営者ってかっこいい」と憧れた中学時代

かつて備後国の国府が置かれていた広島県府中市。山陽新幹線福山駅からローカル線に乗り45分ほどで、中心地の府中駅に着く。この町に本社を置くタテイシ広美社は、自社を「総合情報伝達企業」と位置づけ、屋内外の看板をはじめ電子掲示板の分野で全国をカバーする企業である。

会長で創業者の立石克昭さんは、あいさつもそこそこに「私の座右の銘です」と、自身が描いたというポストカードを手渡してくれた。赤々と熾(お)きた炭火の絵の上に「いこるところに人は集まる」と書かれている。

「備後では炭が熾きることを“いこる”と言うんです」

そう言い、肉も野菜もよく熾きている炭の上で焼くと美味しいし、人も熾きている炭のそばに集まる。会社も同じで経営者が“いこる”、すなわち熱い思いを持っていれば、人も仕事も情報も集まってくる、と話す。

経営者が“いこる”ための要件を聞くと、「事業欲。こんな会社にしたい、こんな仕事をしたいという情熱です」と即答する。

立石さんが経営者を志したのは中学生の頃だったという。よく父親の知人が家にきて飲んでいたそうだ。いろんな職業の人がいた。

「聞くともなしに話を聞いていたら、経営者が一番かっこいいんです。今度あそこに新工場をつくる、こんな製品をつくろうと思っていると、いつも夢を語っていました」

高校生になると、どんな会社を起こそうかと考え始めた。絵が好きだったことから看板業をやろうと決めた。すでに10代の頃から事業欲を沸き立たせていたのだ。

大阪で6年修行し、24歳で故郷の府中市に戻り起業した。1977(昭和52)年のことである。従業員は妻の恵子さん一人。人脈も、仕事もなく、まったくのゼロからのスタートだった。

「看板の仕事は取れず、町を歩いて錆びているベランダを見つけては飛び込みでお願いして、ペンキを塗らせてもらっていました」

素人の恵子さんは、いつも髪や服をペンキで汚した。あるとき立石さんは「後悔しとらんか」と聞いた。すると、「私は汚れても、塗っているものはどんどんきれいになる。こんな楽しい仕事はない」という返事が返ってきたそうだ。

「私が、この事業を絶対に成功させようと思った瞬間でした」

営業に精を出し、水道の機械室の配管塗装と表示、ボディーに字を書く車のマーキングから徐々に看板の仕事を増やしていった。

時代の先を読みすぐに行動に移す

創業から10年後に1つの転機がきた。パソコンの登場である。

「その頃、ほとんどの同業者は“文字書きがパソコンに代わることはない”と考えていたんです」

だが、立石さんはいち早くパソコンでシートに書いた文字を切り抜く「コンピューター・カッティング・マシン」を導入した。費用の500万円は大きな出費だった。

「だけど、私にはキツい・汚い・危険の3Kの職場を変えたいという思いもありました」

パソコンは女性でも使えるし、デザインにも女性的なセンスを入れたいと、立石さんは積極的に女性を採用した。自分も作業着をスーツに替えて営業に回ったという。

「最初は恥ずかしかったですよ」と立石さんは笑う。だが、この変革が数年後に起こるバブル崩壊で思わぬ幸運をもたらした。

バブル崩壊で仕事が一気に激減した。“看板一本でやるのは不安だ。何か次の戦略を考えなければ”と、真剣に思ったそうだ。

そんな矢先、大手電機メーカーから「電光掲示板の代理店にならないか」という話がきた。

取材・文・撮影/編集部


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本記事は、月刊『理念と経営』2024年 10月号「企業事例研究2」から抜粋したものです。

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