『理念と経営』WEB記事

第110回/『逆境を楽しむ力』

「常勝軍団」を築き上げた名将のリーダー論

岩出雅之氏といえば、日本ラグビー史にその名を刻みつけた名将です。

氏は、高校ラグビーの監督として華々しく活躍後、1996年に帝京大学ラグビー部の監督に就任。2009年には同部を初の大学選手権(全国大学ラグビーフットボール選手権大会)優勝に導きました。創部以来40年目にして成し遂げられた、悲願の初優勝でした。

以来、2017年度までに、前人未到の大学選手権9連覇を達成。帝京大ラグビー部を「常勝軍団」に育て上げたのです。

その後、18年度から20年度までの3年間は優勝を逸し、マスコミから「黄金時代の終焉」「低迷」「弱体化」と酷評された苦渋の時期が続きました。
しかし、21年度には再び優勝し、大学選手権V10の輝かしい記録を打ち立てます。それを花道として、岩出氏は26年間務めたラグビー部監督を勇退(22年3月)したのでした。

そして現在は、帝京大学スポーツ局長となり、同大のスポーツ関係を統括しています。

なお、岩出氏には、『理念と経営』にこれまでに2度(16年7月号、18年10月号)ご登場いただきました。ちなみに、そのうち1回は私が取材・執筆を担当しています。

今回取り上げる『逆境を楽しむ力』は、岩出氏にとって4冊目の著書です(ほかに、『常勝集団のプリンシプル』『負けない作法』『信じて根を張れ!』)。

本書は、「帝京大ラグビー部の歩みを綴ったドキュメント」的な内容ではありません。
副題に《心の琴線にアプローチする岩出式「人を動かす心理術」の極意》とあるように、監督としての歩みを踏まえたリーダー論・マネジメント論であり、ビジネスパーソンが読んでこそためになる1冊なのです。
中小企業経営者が読んでも、組織づくりや人材育成のヒントが多数得られるでしょう。ゆえに当連載で取り上げるのです。

チームが逆境を乗り越えた過程を振り返る

タイトルが意味する「逆境」は1つではないでしょうが、中でも最大のものは、帝京大ラグビー部が優勝から遠ざかった3年間にほかなりません。

本書には、連覇が途絶えた3年間をもたらした“失敗”と、それを乗り越えてV10を成し遂げるまでの復活の軌跡が、詳細に綴られています。その点にこそ、岩出氏の過去3冊の著書にはない独自の価値があるのです。

チームが逆境を乗り越えるプロセスに焦点が当てられているため、いま逆境の只中にある経営者やリーダーにも希望を与えるでしょう。

『理念と経営』には、中小企業経営者が直面したさまざまな逆境と、それを乗り越えたプロセスを描き出す人気連載「逆境! その時、経営者は…」があります。本書も、それに通ずる感動をもたらすのです。

「心理的安全性」の生きた教材でもある

では、岩出氏の“失敗”とは何だったのでしょう? 本書の第1章「連覇はなぜ途切れたのか」は、その点を掘り下げた内容です。

岩出氏は、いわゆる「体育会」的なありようを根本から覆した組織づくりで知られます。
一般に、大学運動部などの「体育会」組織では、「下級生は上級生に絶対服従」「雑用は最下級生の役割」という、昔の軍隊のようなやり方がいまも横行しているものです。
岩出氏は、いまの若者にそんなやり方は通用しないと考え、「脱・体育会」を掲げた組織改革を推進しました。

《私は2010年くらいから、4年生を頂点にした体育会のピラミッド構造を逆転させることで、心理的余裕を生み出そうとしてきました》

それまで1年生の役割とされてきた部内の雑用を4年生が一手に引き受け、「下級生は上級生に絶対服従」という封建的上下関係もなくしていったのです。

当然、その改革は一朝一夕にはならず、数年かけて進められていきました。
そして、「逆ピラミッド化」が完成したころには、それまで「先輩は怖いから従う」という権力構造で成り立っていた人間関係が、「先輩は優しく面倒をみてくれるからリスペクトできる」というあり方に変わったのです。

《ピラミッド構造をひっくり返すことは、組織の活性化などに大きな効果があり、それが9連覇の原動力の一つになったことは間違いありません》

この話から多くの人が連想するのは、「心理的安全性(psychological safety)」の概念でしょう。

「心理的安全性」が組織の活性化、生産性向上に不可欠だとする考え方が、グーグルの「プロジェクト・アリストテレス」によって脚光を浴び、ビジネスシーンに定着したのは2016年以降のことです。
岩出氏はそれに先駆けて、ラグビー部に心理的安全性を確保することでチームを強くしたのでした。

ただし、そこには大きな落とし穴がありました。

心理的安全性とは、「組織の中で自分の意見や気持ちを安心して表現できる状態」を指します。しかし、単に「居心地のよい仲良しグループ」を作るためにそれを目指すのではありません。
組織が困難な野心的目標に挑むためには、心理的安全性を確保してメンバ―の力が十二分に発揮できる状態にしなければならない――そんな前提があってこそ、初めて意味を持つものなのです。

つまり、心理的安全性と野心的目標はワンセットと言えます。
心理的安全性の提唱者であるエイミー・エドモンドソン博士(ハーバードビジネススクール教授)も、著作で同趣旨のことを述べています。

にもかかわらず、その点を誤解している人が多く、野心的目標を抜きにして心理的安全性だけを追求する例が後を絶ちません。それでは、組織が単なる「仲良しグループ」になってしまいます。

連覇が途切れた時期の帝京大ラグビー部でも、同じことが起きていたのです。
「脱・体育会」「逆ピラミッド化」という改革の方向性は正しかったものの、一方で野心的目標の追求が不十分となり、ラグビー部の「仲良しグループ化」が進んでしまったのでした。

岩出氏がその“失敗”に気づき、軌道修正をしたからこそ、帝京大は再び日本一に返り咲いたのです。
その過程を振り返った本書は、「心理的安全性とは何か? 何のために大切なのか?」を改めて考えるための生きた教材とも言えます。

「Z世代」の育成方法もよくわかる

本書には、次のような一節もあります。

《低迷期の反省点として、「逆ピラミッド化」などとともに、もう一つ、重要なポイントがあります。私の指導方法や組織の仕組みが、今どきの子、つまり「Z世代」にフィットしていなかったことです》

低迷を乗り越えるためにチーム再構築を進めるなかで、岩出氏はZ世代(1990年代半ば~2010年代前半に生まれた世代)独特の感性や考え方を詳しく調べ、彼らにフィットしたやり方に変えていったのです。

本書では、その経験を踏まえ、《Z世代とは何者か?》、《Z世代のモチベーション・マネジメント》という2つの章が立てられています。全9章のうち2章までが、“Z世代育成論”に割かれているのです。

そこに書かれた“Z世代を育てるコツ”の解説は、そのまま、中小企業の若手社員育成にも役立つでしょう。

実践に裏付けられた、人を動かす心理学

本書の帯には、《ビジネスに速攻役立つ超・実践心理学!》という惹句が躍っています。そのことが示すように、大学ラグビーの話でありながら、一般向けの心理学書としての側面を強く持っている本なのです。

《私は心理学者ではありませんが、教育に携わる者、そして組織のリーダーとして、心理学を現場に取り入れて実践してきた自負はあります》

そのような一節があるとおり、岩出氏が独学で学んだ心理学の最前線を、ラグビー部のマネジメントにどう活かしていったかが、随所で詳述されます。

たとえば、「フロー」というポジティブ心理学の重要概念。ハンガリー出身の心理学者ミハイ・チクセントミハイが提唱したもので、1つのことに没入し、能力を全開させた状態を指す言葉です(スポーツ分野では「ゾーン」という言葉でも知られます)。

本書では、この「フロー」が重要なキーワードになります。部員たちが大事な試合でフローに入るための努力と工夫が、かなりの紙数を割いて綴られているのです。

また、フローに限らず、「ナッジ」、「セルフ・エフィカシー(自己効力感)」、「マインドセット」、「マズローの欲求5段階説」などという心理学用語が、監督としての実践に即して、次々と語られていきます。

つまり、本書全体が、“リーダーがチームビルディングを進めるとき、心理学の知見をどう活かせばよいか?”の模範例になっているのです。

心理学の最前線を一般向けに解説した本は、たくさんあります。しかし本書のように、一流のスポーツ指導者がチームづくりに用いた心理学を詳しく解説した本は、他に例を見ないでしょう。
しかも、本書で語られる心理学に「机上の空論」は皆無です。すべてが監督時代の実践に裏付けられているのですから……。

本書は、中小企業の組織作り、人材育成にも役立つ、「チームビルディングの生きた教科書」ともいうべき1冊なのです。

岩出雅之著/日経BP/2022年5月刊
文/前原政之

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