『理念と経営』WEB記事
人とこの世界
2024年 9月号
美しい花と緑で人を笑顔にしたい

庭園デザイナー 石原和幸 氏
エリザベス女王から「緑の魔術師」と称賛された、庭園デザイナーの石原和幸さん。飛びぬけて美しい庭造りに邁進する原動力は、平和への強い思いだった。
原風景は故郷・長崎の美しい里山
毎年5月、英国ロンドンのチェルシーで開催される「チェルシー・フラワー・ショー」というガーデン・ショーをご存じだろうか? 世界の著名な園芸家たちが競い合う、英国王立園芸協会主催の世界最高峰の庭園コンテストである。このフラワー・ショーに16回出場し、12個のゴールドメダルを獲得した日本人がいる。
石原和幸さんだ。故エリザベス女王から「緑の魔術師」と呼ばれ、チャールズ国王には「あなたの庭は魔法のようですね」と言われた庭園デザイナーである。
羽田空港第一旅客ターミナル内の屋内庭園やJR大阪駅北側の「うめきたガーデン」、ウェスティンホテル東京(恵比寿)など、石原さんが手掛けた庭は数多い。なかでも自身の思い入れが深いものが、長崎市街を一望する高台にある「三原庭園」だそうだ。
「ガウディのサグラダ・ファミリアのように、この庭園を永遠に造り続けていきたいと思っているんです」
そこは、石原さんが生まれ育った場所である。
「三原町は潜伏キリシタンの集落。先祖代々、教会を中心に、貧しいけれど豊かな暮らしを続けてきました。僕の小学校時代は、教会はまだ茅葺きで、夏は棚田にホタルが飛び交い、秋は赤トンボが舞うような絶景の場所でした」
石原さんの庭の原風景は自分が育ったこの里山だ、と言う。
戦後、一家はこの場所で牛を飼い、牧草を育ててきた。経済成長の中で宅地化が進んだ。牛舎の臭いが嫌われ、牧畜は辞めざるを得なくなった。
「父は残った畑で花を育てるようになりました。自分も何か手伝えないかと、僕は近くにあった池坊の華道教室に通い始めたんです」
これが「花」との出合いだった。
「花というものはいいな、と思いました。年をとっても技術をずっと蓄積していける。最高だなって」
石原さんは「花を一生の仕事にする」と決め、大学卒業後に勤めていた自動車販売会社を辞めて23歳で花屋に弟子入りした。1981(昭和56)年のことである。
急激な成功に足をすくわれる
独立したのは29歳。「1年で長崎一番の花屋になる」という夢を抱き、花の路上販売から始めた。やがて繁華街の缶ジュースの自動販売機に目をつけ、地主に掛け合いその場所を借りた。畳み一畳分ながら「店」を持ったのだ。
月明かりの下、きらきらと風に舞う雪の美しさ。人の命も花の命も短いけど、心に残る感動は永遠だ……。そんな想いを込めて、一畳の店を「風花」と名づけた。
その小さな店で花を売りに売った。そして、マンションのゴミ置き場の横、エレベーター前の空きスペースなどを見つけては、1畳ほどの広さの風花を増やしていった。すると、本当に1年で長崎一の花屋になったという。
「僕は花ではなく夢や感動を売っていたんです。究極のサービスは、お客さんと嬉しさや悲しさを共有することだと思っていました」
頼まれて3000円の花束を、赤字覚悟で160キロ離れた場所にいる、依頼主の恋人に届けたこともある。「もう桜の花を見られないかも」と言う末期がんの患者に桜の枝を束にして届けたこともある。そこに感動が生まれるのだ。
「僕はずっと『街に一軒の愛のある花屋があれば街も人も変えられる』と言い続けてきました。花や緑にはそれだけの力があります」
やがて小さいながらも店舗を借りることができるようになった。その一軒が前々から借りたかった長崎一の繁華街・思案橋の角の5坪の店だ。
取材・文/鳥飼新市
撮影/鷹野 晃
本記事は、月刊『理念と経営』2024年 9月号「人とこの世界」から抜粋したものです。
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