『理念と経営』WEB記事

破綻の淵から始まった経営者人生

株式会社白山 代表取締役社長 米川達也 氏

現在、光コネクタ部品で世界シェア2位を誇る白山だが、12年前には倒産寸前だった。そんな切羽詰まった状況に立ち向かったのが、それまで経営経験がなかった現社長。再建の軌跡をたどる。

再就職した優良企業は、実は瀕死の状態にあった

白山は、元々は電話加入者用「保安器」のトップメーカーだった。保安器とは通信回線を落雷から保護する装置で、かつては電話加入者に設置が義務付けられていた。NTT(日本電信電話株式会社)で35年間働いた米川達也さんが、2012(平成24)年に定年後の再就職で白山の副社長に就任したのも、両社のそうした結びつきゆえである。

当初から、いずれは社長になる予定であった。副社長になって1年を経た13年の暮れ、「そろそろ銀行にもあいさつに行こう」と、メインバンクに出向いた。

ところが、その席で初対面の支店長が開口一番言ったのは、「副社長、ご存じのとおり、当行としてはこれ以上ご支援できません」という最後通告の言葉だった。

「『ご存じのとおり』も何も、私はNTTの人事担当者から、『白山は高い技術力を持つ優良企業だ』とだけ聞かされていました。内情が破綻寸前であることは、そのとき初めて知ったのです。青天の霹靂でした」

経営危機の背景には、保安器需要の急減があった。通信回線が(落雷の心配がない)光回線に置き換わっていったことと、携帯電話の普及が原因だ。ピーク時には80億円あった保安器の売り上げが、じつに100分の1にまで減っていたのである。

銀行で「ここに行って相談してください」と渡されたメモには、「東京都中小企業再生支援協議会」(支援協)の担当者名・電話番号・簡単な地図が書かれていた。翌14年の年明け、当時の社長と共に支援協に出向くと、財務書類に目を通した担当者は「どうします? もうほとんど終わっていますが……」と、暗に会社清算を勧めてきた。プロから見て、それほど絶望的な財務状況だったのだ。たとえば、当時の白山は15行もの銀行から融資を受けていた。一つの銀行への返済のために他行から借りて……というくり返しの果てであった。

「支援協からの帰り道、私は社長に『こうなったら、来月にでも私と社長交代しませんか? 銀行筋や債権者筋も、経営者が交代すれば多少は印象がいいでしょうし、私も覚悟を決めますから』と言いました。それで、14年の2月1日付で社長になったんです」

米川さんは、それまでずっと巨大企業の社員として生きてきて、経営経験はゼロだった。にもかかわらず、短期間で会社再建に挑む覚悟を定められたのはなぜか?

「せっかく経営者としての第二の人生を歩み始めたのに、それが会社を畳むだけですぐ終わってしまうのは嫌だったんです。絶対に会社を存続させたかった」

支援協によるデューデリジェンス(資産査定)の結果、深刻な財務状況が明らかになった。売上高34億円に対して、有利子負債は30億円、債務超過は21億円に上っていた。

取材・文・撮影 編集部


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本記事は、月刊『理念と経営』2024年 7月号「逆境!その時、経営者は…」から抜粋したものです。

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