『理念と経営』WEB記事

目先の結果ではなく、「夢の実現」にこだわれ

石坂産業株式会社 代表取締役 石坂典子 氏 ✕  一橋ビジネススクール特任教授 楠木 建 氏

2002年に「脱産廃」を宣言し、業界に新風を吹き込んできた石坂産業。廃棄物の減量化・再資源化率が98%に達するなど、同社はいまやESG・SDGsの象徴的存在として広く知られ、国内はもとより世界から多くの見学者が訪れている。石坂典子社長と楠木建特任教授との対談から浮かび上がる「これからの時代を生き抜くためのリーダーの在り方」とは。

会社を大転換させるチャンスはピンチのときくらいしかない

楠木 石坂さんを語るには、やはり1999(平成11)年の「所沢ダイオキシン騒動」から話を始める必要があると思います。

石坂 そうですね。あの騒動で、所沢周辺にたくさんあった産廃業者がやり玉に上がりました。弊社もその一つでした。廃材を燃やして容積を縮減して埋め立てる産廃処理が主流でしたから、そのための煙突がダイオキシンの発生源と見なされたのです。

当時、周辺に59本立っていた煙突のなかで、うちの煙突がいちばん大きくて新しく、目立っていたため最大の標的になりました。実際には、その2年前にダイオキシン恒久対策炉を導入していたので、排出していなかったのですが……。

楠木 バッシングで会社存亡の危機にまでなったそうですね。

石坂 はい。2001(同13)年には弊社の産廃業者としての許可取り消しを求める行政訴訟も起こされましたし、反対運動の人たちが毎日プラカードを持って抗議活動をしていました。

翌年もそんな状況が続くなか、私は父(創業者で当時の社長だった石坂好男氏)に、「いっそ、焼却をやめませんか?」と言ったんです。父は少し沈黙したあとで、「……地域に必要とされない仕事をしていても仕方ないな」と言いました。生き残るために、売り上げの7割を占めていた焼却事業を捨てる決断をしたのです。

楠木 新しかった焼却炉を廃炉にしたのも、すごい決断ですね。

石坂 そうですね。当時の売上高が25億円ほどだったなかで、その焼却炉を建てるために15億円の借金を背負いましたから。そして、私は父に、「焼却して縮減する事業から、再生する事業に転換しましょう」と提案しました。

楠木 ダイオキシン問題の有無にかかわらず、そういうアイデアは元々持っていらしたんですか?

石坂 はい。一社員として10年間石坂産業の仕事をするなかで、「もっと社会の役に立って、地域に愛される会社に変えていきたい」という思いは持っていました。

楠木 お父様は、ダイオキシン問題がなければ焼却事業をずっと続けるつもりだったのでしょう。ということは、リサイクルに大きくシフトする夢を持っていた石坂さんにとって、ダイオキシン問題は会社を変えるチャンスになったわけですね。

石坂 当時はとてもチャンスとは思えませんでしたが……。

楠木 よく言われる「ピンチはチャンスでもある」という捉え方はまだ浅くて、実は「ピンチこそチャンス」なんです。会社を大きく転換するチャンスって、ピンチのときくらいしかないですから。まさに石坂さんは、最大のピンチを、会社を変える千載一遇のチャンスとして生かされた。それができたのは、石坂さんとお父様が経営者として見事な決断をされたからこそです。

02(同14)年に社長に就任されたあと、石坂さんは会社の内と外から大胆な改革を進めていかれますね。しかも、リサイクルのための減量化設備を、40億円かけて完全屋内型プラントにするという“攻めた”やり方を取られました。負債も抱えて売り上げも落ちたなか、資金調達はどうなさったんですか?

石坂 当時、「SDGs」という言葉はまだありませんでしたが、世界的に「環境に配慮した経営をしなければ」という機運が高まって、日本政府もリサイクルに取り組む企業を支援する融資枠を大きく打ち出したのです。その枠を使って、銀行16行から融資を受けて資金調達しました。

それと、リサイクルプラントを完全屋内型にしたのは、塵埃や騒音を外に漏らして近隣住民に迷惑をかけないためです。地域に愛される産廃業者になるための第一歩でした。と同時に、社員たちの労働環境を整えるためでもありました。露天でリサイクル作業をするのはとても大変な作業です。

楠木 御社は環境に配慮した経営の先駆者ですが、同時に、昨今言われる「人的資本経営」にも先駆的に取り組んでこられたと感じます。人的資本経営とは、平たく言えば「社員たちが将来生み出す価値を信じて投資する経営」ということです。その点で、「働いてくれた分の給料を払います」という人件費とは本質的に違います。人的資本経営の投資は先払いで、人件費は後払いによる労働力の購入ですから。

「うちは人的資本経営に取り組んでいます」と胸を張る企業のなかにも、「いや、それはただの人件費だろう」というところが少なくありません。それに対して、石坂さんは本来の人的資本経営をされていると感じます。労働環境を整えるために大胆な投資をなさっているのですから。言い換えれば、石坂さんは社員さんたちが将来生み出す価値を強く確信されている。だからこそ大胆に投資できるのでしょう。その点でも経営者として優れた資質をお持ちだと感じます。

内と外から進めた改革で、「選ばれる会社」を目指す

石坂 「投資」という言葉がいいかどうかわかりませんが、社員たちの力を信じて、保証はなくてもそこに懸けていくことは、とても楽しいですね。

楠木 ただ、改革を進めた当初は、社員の皆さんからの反発も大きかったそうですね。

石坂 はい。私が社長になって1年くらいで、およそ半分の社員が辞めていきましたから。

楠木 どういう理由でお辞めになった方が多いんですか?

石坂 当時は私が30歳で、社員の平均年齢は55歳くらいでしたから、大部分はずっと年上でした。「若い女社長にあれこれ言われたくない」という気持ちもあったでしょう。「重機も動かせないし、溶接もできないくせに」とか、「社長の娘だからっていい気になって」とか、直接言われたこともあります。

私としては、「会社が変わらないと生き残っていけない」という思いで必死だったんです。同業者は周辺にたくさんあるので、そのなかで「選ばれる会社」にならないと生き残れませんから。

楠木 その思いが理解できない、改革についてこられない人たちが辞めていったわけですね。

石坂 そうですね。とくに反発が大きかったのは、業界初となるISO3種(国際規格ISOの、品質・環境・労働安全衛生マネジメントの3規格)の認証同時取得を目指すと宣言したときでした。その場でヘルメットを「パーン!」と床に叩きつけて「そんな面倒臭えこと、やってらんねえよ!」と辞めていった人が3人。その後に始めたISOの勉強会が嫌で辞めていった人も多かったですね(現在はISOを7種取得し、それらを一本化して統合マネジメントとして運用)。

楠木 僕は石坂さんを見ていると、『緋牡丹博徒 』シリーズを思い出すんです。藤純子(現・富司純子 )さんが「緋牡丹のお竜」というヒロインを演じた任侠映画の名シリーズですけど、ご覧になったことあります?

石坂 いえ、ありません。

楠木 お竜が荒くれ男たちを向こうに回して一歩も退かない、その凛とした感じが石坂さんと重なるんですよ。

石坂 それは光栄です。たしかに、産廃業界には荒っぽい男の人も多かったので、そのなかでまだ若かった私が社長として改革を進めるのは、大変といえば大変でした。

楠木 「選ばれる会社になる」ことを目指して改革を進めたというのは、根源的に重要です。企業価値を推し量るいちばんシンプルな基準は、「その会社がなくなったときに、悲しむ人、困る人がどれだけいるか?」でしょう。ダイオキシン問題のときの御社は、逆に「石坂産業がなくなったら喜ぶ人」が少なからずいたわけで、マイナスからの出発でした。だからこそ、「選ばれる会社」に変わらなければという思いが切実に湧き上がってきたのでしょうね。

石坂 おっしゃる通りです。

楠木 「選ばれるようになってきた」という手応えを感じたのは、どのくらいの時点ですか?

石坂 私が社長になってから10年後くらいですね。

楠木 その手応えを感じた瞬間を示す、何か具体的なエピソードはありますか?

石坂 改革を進めるなかで、私は顧客―産業廃棄物を搬入してくるトラックドライバーの姿勢を正すことも推進しました。「価格のご相談には応じません」と値切り拒否の姿勢を打ち出したり、搬入時の走り方や来社時のマナーを細かく指摘したり……。そのため、「石坂産業はうるさい」「客に指図する」と嫌がって、契約を打ち切る顧客も少なくありませんでした。

ところが、地域の人たちが「廃棄物処理は石坂産業でやってほしい」とご指名してくださるケースが増えてきて、去っていった顧客が再契約してくれるようになったんです。たとえば、地域のあるお年寄りが亡くなる前に、「俺の家を取り壊すときには、廃棄物処理は石坂産業に頼んでくれ」と遺言状のように一筆書いてくださったケースがありました。

構成 本誌編集長 前原政之
撮影 中村ノブオ


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本記事は、月刊『理念と経営』2024年 7月号「巻頭対談」から抜粋したものです。

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