『理念と経営』WEB記事

会社を変える チャンスにしてみせる

ミタニ建設工業株式会社 代表取締役社長 三谷剛平 氏

就任前の官製談合を告発され、経営危機に陥った老舗建設会社の3代目社長。だが、その逆境は、時代の変化に応じて会社を改革する契機となった。その改革の軌跡とは

「寝耳に水」ではすまされない。
社会的評価の失墜に直面して

2012(平成24)年12月のその日、ミタニ建設の社屋の前に、ダークスーツ姿の男たち二十数名が並んでいた。公正取引委員会の調査員であった。

事務所に入ってきた一人が、「社長さんと営業部長さん、出てきてもらえますか?」と声を張り上げた。高知県内の土木工事をめぐる官製談合事件の、突然の捜索であった。

「皆さんが机から動かないように、社長から言ってください。それと、事務所の配席図をコピーして私にください」―そんな一言から、緊迫の取り調べが始まった。

「コピーをしに行く間にも、調査員が一人私の横に張りついて、目を光らせていました」

当時、三谷剛平社長は34歳。30歳のときに3代目社長に就任していたが、談合自体は就任前に行われたもので、寝耳に水であった。とはいえ、社長として矢面に立たないわけにはいかなかった。

今年で創業68年目を迎えるミタニ建設だが、談合事件告発は創業以来最大の危機と言えた。30社以上の建設会社が関与した中でも、同社は「仕切った側」と見做され、特に厳しく断罪されたのだ。課徴金・違約金合わせて計9億円ほどの支払いを命じられ、1年2カ月に及ぶ公共工事指名停止処分を受けた。もともと公共工事が仕事の5〜7割を占めていたから、それがゼロになるのは大きな痛手だった。

「9億円は、当時の売り上げの約2割に相当する額でした。それに、公共工事の指名停止も、期間が過ぎたらすぐ元通りとはいきません。というのも、弊社が談合に関わったとされた過去3年間の公共工事実績が、すべて取り消されたからです。

公共工事を請けるには、その企業の過去の実績が資格として求められます。3年分の実積が帳消しになったことで、ゼロからの再出発に近い状態でした」

数値化できない無形の痛手もあった。事件は全国的に報じられたため、ミタニ建設の社会的評価は急落したのだ。

「一連の報道で、社員はもちろん、そのご家族にも大変心配をかけました。事件発覚後、土木部の主力メンバー4人が相次いで退社しましたが、それは奥さんたちの心配が決め手になったようです」

4人以外にも、社員の離職は散発的に続いた。危機を乗り越えるべく、三谷社長は新たな仕事の開拓と、社内の抜本的改革を始めた。

「三谷くん、そんなやり方じゃ社員はついてこないよ」

ミタニ建設では長年、創業者で剛平氏の祖父である三谷一彦氏が絶対的な存在であった。一代で同社を築き上げ、県建設業協会の会長を務めたこともある大物で、カリスマ経営者にありがちなワンマンだったのだ。

「祖父は辣腕経営者で、営業力も卓越していましたが、社員の言うことはあまり聞かない人でした。たとえば、会議では社員が誰も意見を言えず、祖父の話をただ拝聴するだけ……社内はいつもそんな雰囲気でした」

社長を退いてからも「社主」として目を光らせていた一彦氏には、世のコンプライアンス感覚の変化に気づけなかった面もある。二度と談合を起こさないためにも、創業者の威光から離れ、社員一人ひとりを重んじる組織に変わる必要があった。

「実を言えば私は、以前は祖父に近い感覚を持っていました。『大きな仕事を獲ってきて、数字で結果を出すことが経営者の役割だ』と考えて、社員の働きやすさなどほとんど意識していなかったのです。
 しかし、中小企業家同友会に入ってから、会の先輩に『三谷くん、そんなやり方じゃ社員はついてこないよ』と諭されて反省しました。『うちの会社も、創業家が絶対というあり方を変えないといけない』と思い始めた矢先に、談合が発覚したのです」

談合事件というピンチは、社内改革を推進するチャンスでもあったのだ。三谷社長はまず、社員とその家族を大切にする姿勢を、わかりやすく示した。

取材・文 編集部
写真提供 ミタニ建設工業株式会社


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本記事は、月刊『理念と経営』2024年 5月号「逆境! その時、経営者は…」から抜粋したものです。

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