『理念と経営』WEB記事

第94回/『世界は経営でできている』

発売2ヶ月で10万部突破のベストセラー

岩尾俊兵氏(慶應義塾大学商学部准教授)の著作は、当連載の第79回で、『日本企業はなぜ「強み」を捨てるのか』(光文社新書)を紹介したことがあります。

平成元(1989)年生まれと若く、東大史上初の経営学博士(=同大で経営学の博士号を取った初めての人)でもある岩尾氏は、経営学界のホープとして注目を浴びる俊英なのです。

その岩尾氏の新著『世界は経営でできている』は、今年(2024年)の1月に刊行されたばかりなのに、3月にはもう10万部を突破と、ベストセラーになっています。本が売れないいまの時代に、経営書がこのような勢いで売れるのは異例のことです。
その要因の1つは、本書が「おもしろエッセイ」として書かれていることにあるでしょう。

著者の岩尾氏は、本書を《令和冷笑体エッセイ》と位置づけています。「令和冷笑体」とは、昔の「昭和軽薄体」を踏まえた著者の造語です。
「昭和軽薄体」とは、1970年代末から80年代前半にかけて流行した軽妙な文体。名付け親でもある椎名誠氏の初期のエッセイが、その代表格です。

自ら「令和冷笑体」を名乗るとおり、本書の文体には、さまざまな事象を冷笑的に分析するユーモア感覚があります。2つほど例を挙げてみましょう。

《我々はときどき他者から怒りを買う。買ってしまった怒りは返品もできない。
 相手から「許さんぞ貴様ぁ」などと令和とは思えない時代劇がかったセリフを浴びせかけられて思わず噴き出しそうになる。だがこちらが笑いをこらえていることが分かったら相手の怒りはますます猛ってしまう》(第9章「憤怒は経営でできている」より)

《周囲が目を背けるほどのイチャイチャ新婚夫婦であっても(こうした夫婦の目撃談が少ないのは、周囲が目を背けるというまさにその理由のためだ)、夫の「ボディソープきれてるよ(妻の気持ち:気づいたなら自分で補充しろ)」「ごはんまだ? 疲れてるなら、今日はカレーでいいよ(妻の気持ち:今日は風邪気味だっていっただろ、カレーが簡単だと思うならお前が作れ)」などの一言で、妻は愛の夢から覚めたように思う》(第2章「家庭は経営でできている」より)

タイトルだけ見るとお堅い経営書のようでありながら、本書は随所に笑いが仕掛けられ、気楽に読める「おもしろエッセイ」になっているのです。

「経営」という概念自体を問い直す試み

ただし、本書は単なる「おもしろエッセイ」ではありません。笑いによってシュガーコーティングされてはいるものの、中身は「経営」概念の本質を広い射程から問い直すチャレンジングな試み――ある種の思考実験――なのです。

そもそも、「経営」とは何でしょうか? 「経営=企業経営」とは限らず、「経営=お金儲け」でもないはずです。それはごく狭義の定義であって、本来の「経営」にはもっと広い意味が包含されています。

著者は本書の「はじめに」で、経営を次のように定義しています。

《本来の経営は「価値創造(=他者と自分を同時に幸せにすること)という究極の目的に向かい、中間目標と手段の本質・意義・有効性を問い直し、究極の目的の実現を妨げる対立を解消して、豊かな共同体を創り上げること」だ》

「経営とは価値創造である」――この定義に、『理念と経営』読者の中小企業経営者の皆さんなら、きっと共鳴してくださるでしょう。

にもかかわらず、昨今は経営が単なる「企業のお金儲け」と同一視され、矮小化されがちです。本書は、世に蔓延するそうした傾向に強い「否」を突きつける内容なのです。

《本書が扱う経営概念は多くの方の固定観念と相いれないだろう。この本は経営概念そのものを変化させる書であり、日常に潜む経営がもたらす悲喜劇の博物誌でもある》
《経営するのは企業だけだと思い込むのは無知と傲慢のなせる業だ。学校経営、病院経営、家庭経営……はどこに消えたのか。むしろ世の中に経営が不足していることこそが問題なのである》

本書が拠って立つ、本来的で広い経営概念から見れば、経営とは企業経営者だけが行うものではありません。誰もが経営の当事者でもあるのです。家庭も自分の人生も、ある意味では「経営」の対象なのですから……。
そのような前提に立ち、社会や家庭、人生を経営の観点から見直し、より豊かなものにしていこうと訴えたのが、本書なのです。

《本書の主張は単純明快である。
(1)本当は誰もが人生を経営しているのにそれに気付く人は少ない。
(2)誤った経営概念によって人生に不条理と不合理がもたらされ続けている。
(3)誰もが本来の経営概念に立ち返らないと個人も社会も豊かになれない》

……と、そのような壮大な意図を持った書なのに、表面上は「おもしろエッセイ」であるというギャップが、本書の何よりの魅力です。いわゆる「ギャップ萌え」の書と言えるでしょう。

人生のあらゆる側面に経営思考を持ち込む

各章のタイトルは、「〇〇は経営でできている」というスタイルに統一されています。《貧乏は経営でできている》《恋愛は経営でできている》《仕事は経営でできている》《勉強は経営でできている》など……。
そして、人生のあらゆる側面が経営的側面から論じられていくのです。

たとえば、第12章《老後は経営でできている》には、次のような一節があります。

《老後をめぐる悲喜劇の数々に共通する特徴の一つは、「目的と手段の不整合」「目的と手段の転倒」だ。これはまさに経営問題といえる。目的と手段の位置づけを誤って、自分に配慮して欲しくて自慢話をするが、そのせいでますます配慮を得られないような状況に陥る人はあまりに多い》

《老後をめぐる人生経営の失敗に共通する特徴の二つ目は、思いやりと居場所とを「奪い取るもの」だと勘違いしていることである。
 思いやりと居場所とを闘争によって、権謀術数によって、浪費によって誰かから奪い取らないといけないと思い込んでいるからこそ衝突が起こる》

《人生を経営していく視点を持つことこそ、老後を幸せに過ごすための必須条件なのである》

そのように、人生のさまざまな側面に経営思考を持ち込み、より豊かで幸せなものにしていくための提言が、随所にちりばめられています。

「価値有限思考」から「価値無限思考」へ

家庭から健康まで、恋愛から芸術まで、就活から老後まで、あらゆるものに経営的側面を見いだしていく本書の内容は、一見牽強付会(こじつけ)に思えるかもしれません。しかし、著者の意図は最後の《おわりに:人生は経営でできている》に、次のように記されています。

《「経営概念と世界の見方そのものを再・転換する」という本書の目的を達成するには、現在では経営だと見なされなくなったものに経営を見出していく「センスメーキング」を採用する必要があった(中略)だからこそ、本書は次々と比喩を紹介していくという構成をとっていた》

経営概念の問い直しという目的を達成するための手段として、「〇〇は経営でできている」という比喩の積み重ねが必要だったのです。

この《おわりに》は、他の章とは異なるシリアスな長文。著者はその中で、本書で《経営概念の再転換》をすることによって何を目指したかを明かしています。

《人生のさまざまな場面において、経営の欠如は、目的と手段の転倒、手段の過大化、手段による目的の阻害……など数多くの陥穽をもたらす。
 その理由は、「あらゆるものは創造できる」という視点をもたないと、単なる手段であるはずのものが希少に思えてしまい、手段に振り回されるからである》

本来の経営とは「価値創造を通じて対立を解消しながら人間の共同体を作り上げる知恵と実践」であるのに、いつしかその目的が見失われ、手段に過ぎなかったお金儲けが目的化してしまいました。
だからこそ、いまは《経営概念の再転換》が急務であり、そのために本書を著したというのです。

そして、本来の目的が見失われた根本原因は、経営が価値創造であることを理解しない人たちが「価値有限思考」に囚われていることだと、著者は言います。

《価値あるものはすべて有限だと思い込むからこそ、究極の目的を忘れて目の前の手段を守ることに必死になってしまう。その結果、幸せになる(=価値を創り出す)という究極の目的を忘れ、ただの手段に振り回される》
《価値は有限だとする思い込みが流行するとともに、「価値を誰かから上手に奪い取る技術」を売り歩く人々が跋扈した。いかにして価値を掠め取ったかを自慢するだけの書物が街に溢れた。多くの人は経営の概念を誤解し経営を敵視するようになった。そうするうちに本来の経営の概念は狡知の概念と入れ替わってしまった》

だからこそ、日本にも蔓延している「価値有限思考」を、「価値無限思考」に転換すべきだ――その主張こそ、本書の眼目、根本テーマなのです。

《価値有限思考を、経営によって価値は創造できると考える「価値無限思考」に転換すれば、顧客から他企業まですべてが「価値創造をおこなう共同体内の仲間」に変わる。理想論が現実論になる。そんな世界が実現できるのだ》

一見軽妙洒脱な「おもしろエッセイ」でありながら、本書の根底にはそのような壮大なテーマが流れ通っています。

本書を中小企業経営者が読めば、まず、経営思考を日常生活に持ち込む契機となるでしょう。

経営に向ける思考や情熱と、日々の生活が切り離されてしまっている経営者は多いはずです。
そういう人たちが、会社の経営戦略を練るように、家庭や人生をうまく「経営」していくための戦略を練る。そして、そうすることによって人生が豊かになっていく……そんな変化のきっかけに、本書はなり得るはずです。

また、本書は「そもそも、自分は何のために企業経営をしているのか?」と自らの心に問い直す契機にもなるでしょう。
それは単にお金儲けのためではなく、経営を通じた価値創造によって、自分や社員とその家族、顧客、ひいては社会全体を豊かにしていくためだったはず。その初心に立ち返るための気付きを、本書はもたらしてくれます。

岩尾俊兵著/講談社現代新書/2024年1月刊
文/前原政之

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