『理念と経営』WEB記事

意志あるところに 「商機」は拓ける

株式会社アサヒメッキ 代表取締役社長 木下淳之 氏

「言われたことはすべて受け入れ対応する」そんな下請け気質から抜け出し、世界初の技術を手に入れるまでの株式会社アサヒメッキ(鳥取市)挑戦の日々―。

下請けの悲哀を痛感
「このままではいられない」

戦後間もない1946(昭和21)年、木下淳之社長の祖父木下信治氏が「旭輪業」を立ち上げたのがアサヒメッキの創業になる。自転車の販売・修理とともに手がけていたメッキの注文が多く、事業はメッキを柱に拡大していき、58(同33)年には「旭鍍金株式会社」が設立された。

木下社長は4代目。家業を継ぐつもりはまったくなく、大学を卒業すると衆議院議員の秘書になった。

「大学は情報工学科だったのですが、自分はゲームを楽しむ側で、ほかの学生はゲームをつくろうという人たち。すぐに落ちこぼれました。プログラマーになる資質はないので衆議院議員秘書になったのです。いずれは総理秘書官になりたいと思っていました」

秘書としてついた議員は政界のホープと称される存在だったが、政権が民主党に移った2009(平成21)年の選挙で落選、その後、木下社長は父の「帰ってこい」の声を受けて11(同23)年、家業に戻った。

入社すると現場に配属された。そこで木下社長が知ったのは、下請企業がおかれた「理不尽な立場」だった。

例えば発注元から「納品数が一つ足りない」とクレームがくると、担当責任者は作業を止めて全員で探す。やがて先方の勘違いだったことが判明しても謝罪の言葉一つない。「不具合がある」と言われれば、再処理しなければならない。

どこにどういう問題があって不具合が生じたのか原因を究明することはなく、責任は下請側にあるとして再処理の費用ももらえない。

「言い返したら仕事がこなくなる」と、言われたことをすべて受け入れ対応する。しかも、そういう状況に疑問を抱く社員は少なかった。「下請け気質」が現場を支配していたのである。

木下社長は自分の会社と社員がおかれた現状が、くやしく、みじめに思えた。
「これから先、何十年もこんなことをしていられない」
心の底からそう思った。

「ステンレスに色を」
着想のきっかけとは

木下社長は展示会をのぞいてみることにした。ほかの会社はどういうことをしているのか知りたかったのだ。

展示会は「まぶしかったです」と振り返る。「うちはあそこと取り引きしている」と大手企業との関係を誇示されたり、「これは特許技術です」と独自性を説明されたり。

「うちも、こういう会社にならなければ生き残れないな」と痛感した。

入社1年後に専務に就任した木下社長は、オリジナル技術の開発に向けて取り組みをはじめた。

まずはアルミニウムを錆びないようにする「アルマイト処理」について、「毒物をいっさい使わず、12あった工程を9に減らす」新処理技術を開発した。特許を取得し、発明協会会長賞も受賞したのだが、「中小企業がどれだけ画期的な開発をしようと、世の中の話題にはならない」ことを体験した。

では、どうすればいいのか。「政治家秘書の経験から、答えは肌感覚でわかりました」と言う。

次に取り組んだのはステンレスだった。アサヒメッキではステンレスの電解研磨を手がけていた。

ステンレスは錆びにくく、いつまでもきれいで、耐熱性や強度も高いため、鉄や銅に替わって需要の伸びが期待される素材でありながら、いま一つ伸び悩んでいた。そこで使用者の要望を知ろうと、ステンレスを使った介護用ベッドを使っている施設でアンケートを行なったところ、「冷たい感じがする」という声が多かった。

ステンレスを彩り豊かな素材にしてはどうか……。

取材・文 中山秀樹
写真提供 株式会社アサヒメッキ


この記事の続きを見たい方
バックナンバーはこちら

本記事は、月刊『理念と経営』2024年 4月号「企業事例研究2」から抜粋したものです。

理念と経営にご興味がある方へ

SNSでシェアする

無料メールマガジン

メールアドレスを登録していただくと、
定期的にメルマガ『理念と経営News』を配信いたします。

お問い合わせ

購読に関するお問い合わせなど、
お気軽にご連絡ください。