『理念と経営』WEB記事

第93回/『マーケティングとクリエイティブをもう一度やり直す 大人のドリル』

「雇用のカリスマ」の、もう1つの専門分野

著者の海老原嗣生(えびはら・つぐお)氏は「雇用ジャーナリスト」として活躍し、「雇用のカリスマ」とも呼ばれています。
テレビドラマ化もされた人気マンガ『エンゼルバンク-ドラゴン桜外伝-』(三田紀房・作)には、副主人公として海老沢康生という「カリスマ転職代理人」が登場しますが、そのモデルとなったのが海老原氏なのです。

海老原氏には、『理念と経営』2023年3月号の特集「選ばれる採用戦略」にも、識者インタビューでご登場いただいたことがあります。そのときのテーマは、もちろん採用でした。

ただし、今回取り上げる海老原氏の近著『マーケティングとクリエイティブをもう一度やり直す 大人のドリル』は、タイトルが示すとおり、雇用や転職とは関係ありません。
海老原氏は、元はリクルートのクリエイティブ部門で活躍していた方であり、マーケティングとクリエイティブはいわば“もう1つの専門分野”なのです。

《私の著作やセミナーなど見聞きされたことがある人は、「海老原は雇用・人材の人」と認識されているのではないか。
 ところが実は、私のキャリアは、雇用・人事よりも、クリエイティブ・マーケティング系の方が長い。
 にもかかわらず、今まで1冊もこの方面の本を上梓せずにいた》

すでに30冊もの著書を持ちながら、クリエイティブ・マーケティング系の著書はなかった海老原氏が、満を持して上梓した1冊目が本書だったのです。

マーケティングの「理論と実践」を結ぶ

本書の巻末には、マーケティング研究の第一人者として知られ、『理念と経営』にも折々にご登場いただいている石井淳蔵先生(神戸大学名誉教授)が、解説を寄せています。そこから、本書の特長についての一節を引いてみましょう。

《マーケティングのテキストはあまたありますが、マーケティングとクリエイティブのためのテキストはあまり見ません。本書は、その意味で挑戦的な試みです。
 多くのマーケティングのテキストでは、マーケティングの諸技法が解説されたり、実際に会社がそれを用いてうまくやっているケースが紹介されたりします。それで、諸技法の「知識」と「知恵」は習得できます。しかし、そうした技法の知識と知恵を知っても、なかなか実践で使いこなすのは簡単ではありません。(中略)
 本書は、そうした理論と実践とのはざまに潜む課題、つまり「マーケティングの知識や知恵を実際にどう使いこなせばいいのかと」いう点(=クリエイティブ)に着目しました》

また、「はじめに」では著者の海老原氏自身も、次のように述べています。

《本書は、コンセプトとコンセプトワーク、パッケージング(≒アラインメント)、ターゲットとセグメント、STP分析、ブランド、コアコンピタンスなどを、読者のみなさんが「使いこなせる」ようになることを目的としています》

《クリエイティブは「知っている」程度じゃ、てんで話になりません。「理解した」でもまだまだ。きちんと咀嚼して使いこなせるようになってこそ、ようやくビジネスに生きてくる。だから、「ドリル」と銘打っています。今までのビジネス書とはそこが大きく異なります》

マーケティングの理論をただ知識として学ぶのみならず、実際のクリエイティブの現場で「使いこなせる」ようになるための本――つまり、マーケティングの理論と実践を結ぶ本なのです。

「ドリル」(問題集)と銘打たれているとおり、各セクションに、そのセクションの講義内容を踏まえた「ワーク」が用意されており、空欄に自分で考えた「答え」を書き込む形式になっています。
もちろん、ワークを飛ばして読み進めることはできますが、そうしないで欲しいと著者は言います。《それでは永久に、「分かったつもり」から抜け出せないから》と……。

「コンセプト」がビジネスの成否を分ける

コンセプトはマーケティングの中核概念ですから、その大切さは本書でかなりの紙数を割いて解説されています。コンセプトがビジネスの成否を分けた事例についても、わかりやすいストーリーの形でたくさん挙げられています。

「コンセプト云々なんて、うちみたいな泥臭い中小企業には関係ない話だ」と思う向きもあるかもしれません。
しかし、そうではありません。本書は中小企業経営者にとっても大いに学びとなる内容なのです。

「なぜスマホは日本から生まれなかったのか?」という話があります。
スマホに先立つこと10年以上前の1990年代、日本には「ザウルス」や「クリエ」などの「PDA(Personal Digital Assistant)」が生まれ、ビジネスパーソンの3割以上に普及していたからです。
PDAには電話機能こそなかったものの、それ以外は機能も大きさもスマホとほとんど変わりませんでした。したがって、PDAが進化してスマホになり、iPhoneなどに先んじることは、技術的には十分可能だったのです。

にもかかわらず、日本のPDAはスマホにはなれませんでした。その理由が、本書ではコンセプトの違いから解説されています。

《PDAとスマホでは、機能・筐体は似ていても、「コンセプト」が大きく異なった》
《コンセプトとは、分かっているつもりでも、なかなかうまく説明できない言葉です。なので、ここではひとまず、「その製品を使うことによって、ユーザーの生活がどう変わるか」という世界観とでもしておきましょう》

スティーヴ・ジョブズはiPhoneを「携帯コンピューター」と捉え、「持ち運べるコンピューターは普通の人々の生活を大きく変える」というコンセプトを打ち出しました。それに対し、《日本のPDAは「デジタル手帳がビジネスパーソンを便利にする」がコンセプトであり、それ以上の世界観を作れなかった》と、著者は言います。

《「世界観(コンセプト)」を忠実に実現するためには、必要なもの(機能やデザイン、技術、広告など)をそろえなければなりません。ただし、不必要なものまで付加すると、過ぎたるは及ばざるがごとしで、コンセプトはすぐに崩れてしまいます。だから「過不足なくそろえる」ことが重要になります。それをマーケティングの世界では「パッケージング」と呼んでいます》
《外野(特に影響力の強い顧客や営業セクション)の声に左右され、あれもこれもと機能を詰め込み、やがてコンセプトは「お題目の空念仏」に堕していく。それが多くの(とりわけ日本の)経営なのでしょう》

技術やアイデアでは負けていなかったのに、コンセプトやパッケージングの基本がなっていなかったから、日本のPDAはスマホに進化することができなかった……それが著者の見立てです。

《日本は、技術やアイデアはあるが、コンセプトがないのです。
 むしろ、21世紀の先端企業は、「技術やアイデアは二番煎じでいいから、コンセプトで勝負」が正しいのでしょう。
 だからこそ、コンセプトワークをしっかりできるようになるための足腰=クリエイティブの作法が重要となってきます》

その「クリエイティブの作法」を、身近な具体例を通じてわかりやすくレクチャーしてくれるのが、本書です。

「クリエイティブの作法」は中小企業経営にも活かせる

コンセプトやパッケージング以外にも、マーケティングの「基本のき」と言える事柄が、本書の中で解説されていきます。
たとえば、ターゲットを絞り込む「セグメント」や、「STP分析」(「セグメンテーション」「ターゲティング」「ポジショニング」の3要素からマーケティング戦略を策定する分析手法)、コアコンピタンス(自社の優位性の源泉)を活かしたブランディングなどです。

それらは、「言葉として知ってはいるが、実は意味がよくわかっていない」という人が、中小企業経営者には多いのではないでしょうか(私もそうでした)。
本書は、それらの大切さを身近な具体例に落とし込んで平明に解説しているので、「なるほど、そういうことだったのか!」と腹落ちする人が多いはずです。

たとえば、「朝専用」と銘打たれた缶コーヒー「ワンダ モーニングショット」が、セグメント戦略としていかに卓抜だったかが解説されます。
また、「そうだ 京都、行こう。」という名コピーとともに展開されたJR東海のプロモーション・キャンペーン(1993年の初登場以来、30年以上も継続されています)が、いかに優れたマーケティング戦略のもとに練り上げられたものであったかが、詳しく説明されます。

それらの豊富な事例の解説を読み、ワークに挑戦するうち、読者はおのずと「クリエイティブの作法」の基本を身につけることができるでしょう。

本書は、マーケッターや各種クリエイターにとってのみ有用なのではありません。
「クリエイティブの作法」を中小企業経営者が身につけたなら、新製品開発とその商品展開についても、それまでよりも洗練された効果的なやり方ができるはずです。

海老原嗣生著/日経BP/2023年2月刊
文/前原政之

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