『理念と経営』WEB記事

「下請け根性」脱却が会社の転機に

株式会社セルコ 代表取締役会長 小林延行 氏

過去、1社依存の下請け仕事を3度にわたって失い、そのつど倒産危機に陥ったセルコ――。業界が驚くようなオンリーワンの技術力を磨き、「下請け根性」を捨てることで、強い会社に生まれ変わった。

1社依存の恐ろしさを思い知った、3連続の逆境

産業用コイル(巻線)を作る会社であるセルコは、創業数年目から大手プリンターメーカーの完全下請けとなり、月に数百万個ものコイルを製造・納入してきた。ところが、バブル崩壊後、そのメーカーの工場が海外移転。17年間続いた大量の下請け仕事が、一夜でゼロになった。

そのころ小林会長は、実兄が創業したセルコの管理部長を務めていた。

「当時、親会社の購買担当者から『悪いけど、お宅の会社、潰れるよ』と告げられて、愕然としました」その矢先、米国のウエスタンデジタル社(以下、WD社)から、ハードディスクのスイングアームという部品とコイルをモールド(プラスチック成形)でつなぐ特殊な試作品を受注した。セルコは、その注文を難なくクリア。すると、その特殊成形を大量受注し、半年後には会社を支えるほどの売上になった。

だが、4年後、WD社から取引停止を言い渡された。

「その数カ月前、WD社から『工場を見学させてほしい』と言われて、無防備に応じてしまいました。そのときに教えた特殊成形のノウハウを、WD社側は中国の会社に伝え、そこを代わりの下請けに据えたのです。いまなら警戒して工場見学も断りますが、当時は、親会社から言われたら下請けは応じないといけないと思い込んでいました」

その4カ月後、今度は韓国のサムスン電子から救いの手が差し伸べられた。当時、サムスンもハードディスクとコイルのモールド化で苦労しており、セルコの技術力に目をつけたのだ。

しかし、1997(平成9)年の「アジア通貨危機」の影響で、翌98年にサムスンからの受注はピタリと途絶えた。当時、売上の7割を占めていたサムスンからの受注を、一気に失ったのである。

3度目にして最大の逆境――。もう「拾う神」は現れなかった。同じような逆境を3度くり返し経験したことで、小林さんは1社依存の恐ろしさを思い知った。

「下請け仕事が悪いわけではありません。問題は、中小企業経営者が『下請け根性』に染まりきってしまうことです。かつてのセルコは、その下請け根性のため、危険な1社依存の状態に安住してしまっていました」

2年間のぬるま湯の日々を経て、「経営者として覚醒」

会社を畳む選択肢もあったが、小林さんは自らが社長となり、規模を縮少し存続させる道を選んだ。父(セルコの親会社だった電線会社の創業者)と兄が築き上げた会社を終わらせる気にはなれなかったのだ。

約50人いた社員を、断腸の思いでリストラし、17人に減らした。一人ひとりに解雇を通告したときの悲しさ・情けなさは、いまも記憶に鮮明だ。

「今後、どんなことがあっても二度とリストラはするまいと、心に誓いました」

だが、それからすぐに再建の闘いが始まったわけではなかった。

「父の遺産が億単位でありましたし、父の会社の研究所跡地にセルコの社屋を建てたので家賃も要りません。17人くらいは、入ってくる仕事で食っていけるだろうとたかをくくって、営業もろくにしませんでした。下請け根性が抜け切っていなかったのです」

ぬるま湯の日々が2年間続いた。その間、当然売上は上向かず、さすがに遺産も底をついてきた。そんな小林さんを見かねた経営者仲間が、ある研修セミナーに誘った。そのセミナーの自社について語り合うセッションに参加した際、語りながら小林さんは強烈な感動を覚え、いわば「経営者として覚醒」したのである。

「2年間、自分は社長らしいことを何もしてこなかった。社員たちに何と申し訳ないことをしていたんだろうと猛省して、滂沱(ぼうだ)の涙を流しました」

翌日、全社員を集めて「これから心を入れ替えて一生懸命働くから、どうか皆さん、力を貸してください」と訴え、深々と頭を下げた。

「私が本当の意味で社長になったのは、あの日だったと思います」

取材・文・撮影 編集部


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本記事は、月刊『理念と経営』2024年 3月号「逆境!その時、経営者は」から抜粋したものです。

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