『理念と経営』WEB記事

「共生」から生じる熱が、 イノベーションの原動力

株式会社アオキシンテック 代表取締役CEO 青木圭太 氏

自動車設備を手掛けるアオキシンテック(栃木県真岡市)はEV化に伴う仕事激減の危機に直面するも、異分野への事業展開に新たな活路を見いだした。その成功ポイントに迫る

ひとつの業界に依存していたら潰れる

アオキシンテックは1990(平成2)年に青木圭太社長の父延一さんが青木製作所として創業した。延一さんはホンダ車の機械メンテナンスを手掛けていたのだが、その技術力を認める周囲の人たちに勧められて独立したのだった。

青木社長が入社したのは2000(同12)年。高校生のときから家業を手伝っていた青木社長は、大学生になると週5日の割合で現場に入るようになり、青木社長でなければ使えない機械もあったため、「このまま大学に通っても卒業すれば家業に入るのだから」と3年生になる年に大学を中退し、20歳のときに入社したのだという。

当時は社員5~6名とアルバイト数名で自動車設備の部品や加工を手掛ける家族経営の町工場だった。青木社長は現場の仕事をすべて習得するとともに、パソコンが使えるからと経理業務も任され、税理士や銀行との打ち合わせもこなすなど、経営の一端も担った。

やればやるだけ注文がくる状態が続き業容は拡大していったが、08(同20)年のリーマン・ショックで状況が変わった。

父は「いいものを安くつくっていれば、お客さんは離れない」との信念で仕事に取り組んでいたが、実際はそうではなかった。自動車メーカーの担当者は、技術力は低く値段は多少高くても気心の知れた業者に発注し、2番手に据え置かれた青木製作所には仕事がこなくなった。

「おカネで時間を買う感覚」で銀行からの借入れにより過剰なまでに設備投資を進めていたため、仕事がなくなると途端に大きな危機に直面することになった。

「自動車だけに依存する一本足体制では、何かあったらすぐに潰れてしまう」

そう痛感した青木社長は、ほかの分野の仕事も手掛けることにした。

社員の意識改革のため
社名と理念を変更する

営業の担当者はいなかったので青木社長が自ら注文をとって回った。

ほかの会社ができることならうちでもできるはず。できなければ原因を分析してできるようになるまでやり続ける。「できない」ことを「できる」に変える。そういう姿勢で新しい仕事に取り組んだ。

こうしてリーマン・ショックを機に他分野に進出しリスク分散を図ったのだが、自動車業界以外の仕事の割合は2割程度にとどまっていた。現場の技術者たちは自動車業界を扱うのが自分たちの本分と認識しており、それ以外の仕事には「なぜこんな仕事をしなければならないのか」と不満を明らかにするのだった。

しかも自動車分野の仕事の利益率は高い。それも業務の広がりを阻んだ。

ところが20年代に入り、自動車メーカーがこぞってEV(電気自動車)化に向かうようになると仕事は激減した。主要取引先だったホンダはのちに真岡市にあるエンジン部品工場を2025(令和7)年に閉鎖すると発表したほどだ。

青木社長は「このままでは潰れると思いました」と振り返る。

取材・文 中山秀樹
写真提供 株式会社アオキシンテック


この記事の続きを見たい方
バックナンバーはこちら

本記事は、月刊『理念と経営』2024年 3月号「企業事例研究2」から抜粋したものです。

理念と経営にご興味がある方へ

SNSでシェアする

無料メールマガジン

メールアドレスを登録していただくと、
定期的にメルマガ『理念と経営News』を配信いたします。

お問い合わせ

購読に関するお問い合わせなど、
お気軽にご連絡ください。