『理念と経営』WEB記事

どんな逆境にも意味がある

株式会社スリーハイ 代表取締役社長 男澤 誠 氏

妻の一言に背中を押され、ついに決意した事業承継

スリーハイは、「産業用ヒーター」の製造・販売を手がける会社だ。さまざまな産業で「温めること」に用いるヒーターを作っている。たとえば、監視カメラの曇り止め、配管の凍結防止、塗料や食用油脂などの高粘度化防止、タンク内の液体の加熱・保温など……。幅広い業種の多彩なニーズに応えてきた。

先代の男澤利藏氏が創業したころ、長男である現社長は大学生だった。

「創業直後、製品が思うように売れず、父たちが苦労する様子を目の当たりにしました。『大学の学費も出せなくなるかもしれない』と言われて、バイトで稼いだお金を家に入れたりしたものです。『俺は絶対にこの会社を継がないぞ』と思いましたよ(笑)」

男澤さんは通信建設業界(通信キャリアから工事を請け負う)最大手に就職し、システムエンジニアとして活躍した。一方、家業はその後軌道に乗り、経営は順調であったが、やはり継ぐ気にはなれなかった。だが、それから数年後、父・利藏氏が白血病を発病し、入退院を繰り返すようになった。見舞いに通った病室で、父から「会社を継いでほしい」と懇願され、迷いの日々を過ごすことになる。

「幸い、父は抗がん剤治療で白血病を克服して、いまも元気です。ただ、当時は死を覚悟したでしょうから、会社の行く末が心配でたまらなかったのでしょう。痩せて、(抗がん剤の副作用で)髪の毛がなくなり、声も細くなった父の姿を見て、気持ちが揺らぎました。でも、私は元々工作が苦手でものづくりに向いていないし、営業も苦手でした。そんな私が会社を継いでいいのだろうかと迷ったのです」

そんなとき、妻の聖子さんから、「覚悟を決めて継いだらいいじゃない。私が支えるから大丈夫よ」と言われた。その力強い一言に背中を押され、後継者としてスリーハイに入社したのだ。2000(平成12)年のことで、当時30歳だった。

内にも外にも逆境があった、入社後の長くつらい日々

入社後しばらくは、他の社員たちとの壁が最初の逆境となった。先輩にヒーターの組み立てを教わってもうまく作れず、営業トークも苦手。そんな男澤さんは、社員たちからは役立たずに見えた。「無能な後継ぎが会社を潰すパターンだよな」と、聞こえよがしの陰口を叩かれたこともある。

「私のほうにも、前職との環境の落差に驚いて、家業を見下していた部分がありました。何しろ、パソコンはあってもネットにすらつながっていませんでしたから。そんな気持ちを父に見透かされて、『いいかげんに大企業の看板は(心から)下ろせ』と叱咤されて、ハッとしました」

そこから、「自分にできることをしよう」と考えるようになった。社内にネットワークシステムを構築し、手書きだった受発注や生産管理をオンラインで完結できるようにした。そのことで仕事の効率性が大幅に高まり、ようやく社員たちに力を認めてもらえた。前職での経験が活かされたのだ。

次の逆境は、入社翌年(2001年)のこと。朝、会社で新聞を読んでいた男澤さんは、1つの記事に目をとめて思わず声を上げた。スリーハイが売り上げの8割以上を依存していた元請け・B社の倒産が報じられていたからだ。父親もその記事で初めて倒産を知り、真っ青になった。

「一夜にして売り上げの大半を失ったのです。前月にも大量の製品をB社に納入していましたから、その分の代金も焦げ付いてしまいました」

一社依存のリスクを思い知らされた出来事だった。

「それからは、連鎖倒産を回避するために、父と2人で奔走しました。銀行に融資の交渉をし、(社屋の)大家さんに家賃の相談をし、仕入先には当面の値下げをお願いして……。そのときに父から言われたのは、『こういうとき、いちばんやってはいけないのは社員の給料を止めることだ。それをしない代わりに、俺たちはしばらく給料なしだぞ』ということでした」

取材・文・撮影 編集部


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本記事は、月刊『理念と経営』2024年 1月号「逆境!その時、経営者は…」から抜粋したものです。

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