『理念と経営』WEB記事

新しいことが点になり、 振り返るとそれが 線になる

菊乃井 三代目主人 村田吉弘 氏

無形文化遺産登録を目指した理由

和食がユネスコ無形文化遺産に登録されて、10年がたった。この間、日本料理をめぐる環境はどう変わったのだろうか。

「大きく変わりました」

発起人の村田吉弘さんは、そう言う。たとえば登録以前には世界に5万6000軒しかなかった日本料理店が、いまは16万8000軒、約3倍に増えたのだそうだ。

「ヘルシーでライトな日本料理を学ぼうと考えるシェフも増えています」

村田さんが日本料理を無形文化遺産に登録させたいと考えた理由は2つあった。1つは日本人自身が自国の食文化を見つめ直すきっかけをつくりたいと思ったことだ。だから登録は日本料理ではなく、それを支える広い裾野という意味での「和食」なのである。

「いわば家でおばあちゃんが毎日つくってくれるおばんざいです。食事すること自体が文化ですから、それを見直してほしいということです。そのために文化遺産に登録されることが一番早いと思いました。日本は外圧に弱いから(笑)」

その結果、文化庁も和食を無形文化財と認定したし、京都府立大学には和食文化学科もできた。

そして、もう一つの理由は、日本料理を世界の料理にすることだ。

「日本の食糧自給率は39%です。50年後には19%になると言われています。このままやと僕らの孫や子どもが飢えるということです」

しかし、世界に日本料理店が増えれば、料理に必要な農作物や魚介類の輸出も増える。無形文化遺産登録は、日本の一次産業育成にもつながるという発想だ。

「この20年の間に日本人はコメの消費を半分にして肉の消費を5倍にしたんです。自らの伝統的な食べもんを根本的にひっくり返した国というのは、世界中にないんです」

京都市と一緒に、村田さんは学校給食を通して「食育」も進めている。

「週に4、5回は米にしました。食は学習なんです。スナック菓子ばかり食べている子が、何もしないで、きんぴらごぼうを好きにはなりません」

「見て覚えろ」はナンセンス

1951(昭和26)年、村田さんは京都の料亭「菊乃井」に生まれた。3代目である。祖先は豊臣秀吉の妻ねねについて高台寺にきたという。

小さなときから、食事は祖父、父と3人で食べ、「これ何入ってる?」「この味付け、ちょっと甘ないか」などと“食の英才教育”を受けた。

「それが面倒くさかったんです。大坂城から数えたら22代目と言われると、もう勘弁してほしい……」

立命館大学在学中に、フランス料理を学ぶと決めフランスに旅立った。パリのリュクサンブール公園のベンチで、赤ちゃんに白い離乳食を食べさせている母親を見た。豆腐かなと思ったら、子羊の脳の塩茹でだった。ある料理店の厨房では料理人たちがさばいたばかりの鴨の血をパンにつけて食べていた。食文化がまったく違うことを実感した。

「フランス料理では一番にはなれへんなと思いました」

やっぱり日本料理で生きよう。そう思い直した。大学に復学し、卒業すると名古屋の料亭に修業に入った。

初出の日、ロッカーでいきなり17、8歳の若い板前に包丁を突きつけられ、「村田。なめたらあかんぞ。わしらのほうが上やからな」

と言われた。手荒い洗礼だ。先輩のアドバイスもあり、彼らに料理を学ぶ真剣な姿を見せた。
朝は一番に店に入り、掃除や布巾の下準備などをやる。汚水が溜まるグリストラップの掃除も、毎週、汚水に浸かりながらやった。時には、若い板前たちにご飯やコーヒーもご馳走した。やがて「村田」が「村田君」になり、「村田さん」になった。

修業は前時代的なものだった。「見て覚えろ」と言われて、やらせてもくれないし、教えてもくれない。これでは、わかるはずがない。

「勘と経験を積まないかんという話でしょう。ナンセンスですよね」

腹が立って仕方なかったが、修業の身、グッと堪えて精進した。

取材・文 鳥飼新市
撮影 丸川博司


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本記事は、月刊『理念と経営』2023年 12月号「伝統を未来につなげる」から抜粋したものです。

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