『理念と経営』WEB記事

「果たすべき使命」に、気づいているか?

薬師寺執事長 大谷徹奘 氏 ✕ 日本総合研究所会長 多摩大学学長 寺島実郎 氏

戦後、物で栄えることだけを目指し走り続けてきた日本。しかし、唯一の拠り所としてきたその経済力が失われつつあるいま、私たちはこれから何を目標に歩んでいけばいいのか―。この寺島実郎氏の問題提起に、法話を通じ市井の人々に語りかけている大谷徹奘・薬師寺執事長は「いまこそ、日本人が失った大切なものを取り戻すとき」だと説く。

「負けてなるものか」という気概を取り戻せ

―今年の掉尾を飾る巻頭対談です。明年に向けて、「希望の光」を探すような語らいにできればと思います。

寺島 今年がどういう年であったかを歴史の中に位置づけてみると、「77年」がキーワードとして浮かんできます。というのも、明治維新から敗戦までが77年であり、敗戦から昨年までがやはり77年であったからです。つまり、77年周期で日本が大きな節目を迎えると仮定すれば、今年は新時代のスタートラインだったと考えられるわけです。

読者の中小企業経営者の皆さんは、いまから77年後―西暦2100年という次の節目を目指して、従業員の命を背負いつつ船出をされた。では、何を目指して進めばよいのか? そういう意識で、私たちの対談をお読みいただきたいと思います。

大谷 寺島先生、薬師寺までお越しいただき、ありがとうございます。対談テーマの一つが「日本人の心の基軸に立ち返る」だと伺ったので、そのことをじっくり考えてこの場に臨みました。
私の師匠・高田好胤(1924~98/薬師寺元管主) 和上に『日本人らしく』(徳間書店)という著作があるので、それを読み返してみたんです。その中に「物で栄えて心で滅ぶ」という一節がありまして、戦後から現在までの日本を象徴しているように思いました。物質的には繁栄したけれど、昔ながらの日本人らしさ、美徳が失われてしまった。それを取り戻すところから、日本再生を始めなければならないのではないでしょうか。

寺島 おっしゃるとおりです。日本人は77年前の敗戦を、「大和魂、つまり心ではアメリカに負けていなかったが、物量の差で負けた」と総括したのだと思います。だからこそ、戦後の日本は「物で栄える」こと―物質的豊かさをひたすら追求した。そのことによって、アメリカに追いつき、追い越そうとしたわけです。
そして、1980年代から90年代前半にかけて、それは実現しました。日本という国が世界に占めるGDP(国内総生産)の比重が、戦後間もない1950(昭和25)年には3%だったのに対して、ピークとなった94(平成6)年には18%まで拡大しました。敗戦からの半世紀で、日本は世界第2位の経済大国にまで上りつめたわけです。

ところが、その絶頂期から30年が経とうとしているいまはどうか? 昨年、日本のGDPシェアはわずか4%にまで落ち込みました。戦後間もない時期の水準まで戻ってしまったのです。すでにGDPシェアで日本は中国に抜かれました。このままでは近い将来、ドイツとインドにも抜かれるでしょう。

物で栄えることだけを目指して「戦後なる時代」を走ってきた日本が、唯一の誇りの拠り所にしてきた経済力を、いま失いつつある。
だからこそ、経済的価値だけではなく精神的・文化的価値に、いまこそ目を向けるべきなんです。それが「日本人の心の基軸」ということなのだと思います。

大谷 私は小林一茶(江戸時代の俳人)の俳句が好きで、中でも、「やせ蛙負けるな一茶これにあり」という有名な句がいちばん好きなんです。あの句の中にこそ、日本人の精神性が躍如としているように感じるからです。「やせ蛙」とは一茶自身のことだと、多くの専門家が解釈しています。不遇な環境に苦しみながら生きた一茶が、自らを弱いやせ蛙になぞらえて、「負けるな」と心を鼓舞した句なんですね。

日本人の美徳というと、謙虚さや勤勉さなどを思い浮かべる人が多いでしょうが、私は、「負けてなるものか」と歯を食いしばって頑張る心こそ、誇るべき美徳だと思います。
私の父(大谷旭雄氏)は、東京大空襲で家族全員を喪い疎開していた自分だけが生き残った孤児でした。その不遇な少年時代から「負けてなるものか」と頑張り、大学教授になり、浄土宗でもかなりの高僧になりました。父のように、戦後の焼け野原から「負けてなるものか」と頑張った人たちが日本にはたくさんいて、その方々が戦後の復興と繁栄を支えてきたのです。

ところが、いまは「負けてなるものか」という言葉自体が、あたかも死語のようになってしまっています。「負けるな」という以前に、多くの人は戦おうともしない。また、「頑張らなくてもいいんだよ」と皆が言ってくれる。そうした風潮にはプラス面もあるでしょうが、マイナス面も大きいように思います。
戦後の焼け野原の中を、皆が「負けてなるものか」と立ち上がり、ゼロから新しい日本を築いていった―そのころの気概を、いまの日本人は取り戻すべきではないでしょうか?

「物で栄えて心で滅ぶ」ことに警鐘を鳴らした師の教え

寺島 いまお名前が出た高田好胤和上は、実は私にとっても忘れ難い方です。というのも、私は1964(昭和39)年に札幌の高校生として修学旅行で薬師寺を訪れて、そのときに高田和上と出会ったからです。

大谷 高田和上は、修学旅行の生徒たちへの法話に力を入れた方でしたからね。

寺島 ええ。もちろん、そのとき法話をしてくださったのが高田和上であったことを、私は後年になって知りました。当時は「名前も知らないお坊さん」として接したのです。ただ、高田和上が、普通の高校生であった私たちに、真剣に、本気になって仏教の精神を語りかけていたことが、伝わってきました。「このお坊さんは、どうしてこんなに真剣なんだろう?」と不思議な気持ちになりました。

64年といえば1回目の東京オリンピックの年です。敗戦から20年近くを経て、日本がいよいよ経済一辺倒の時代に入っていこうとした時代に、高田和上は逆に、経済的豊かさとは違う、日本人の精神性に目を向けさせるような法話をされていました。
その後、私は成人してから、時に和辻哲郎の著作を片手に奈良・大和を旅するようになりました。「日本人の心の故郷、大和に行ってみよう」という思いの原点になったのは、修学旅行で出会った高田和上だったのです。

大谷 私が師匠から教わったことはたくさんあって、ここではとても語りきれませんが、一つ言えるのは、相手の目線に合わせて語る方だったということです。たとえば子どもがいたらしゃがんで、子どもの目線に合わせて、肩にそっと手を添えながら法を説く方だったんです。それはおそらく、仏教的な慈悲の精神の発露だったのでしょう。

そういう方だったからこそ、10代の私が「この人なら、師匠として一生ついていけそうだ」と思えたのだと思います。
また、師匠は高度経済成長期のさなかから、日本が経済一辺倒になると、やがて「物で栄えて心で滅ぶ」ことになると予見していたのでしょう。だからこそ、法話を通じてたくさんの人々に、「日本人の心を大切にしないといけない」と訴え続けたのだと思います。それは師匠にとって、自分に与えられた使命を果たすことだったのでしょう。

師匠が法話を通じて「物で栄えて心で滅ぶ」ことに警鐘を鳴らし続けたように、私がいま薬師寺に身を置いているのも、僧侶として日本人に「日本人としての大切なものを失ってはいけない」と警鐘を鳴らし続けるためなのだと思っています。
私は99(平成11)年から全国で法話行脚を始めて、もう四半世紀近くも続けています。多い年には年間300回も法話を行ってきました。師匠には及びもつきませんが、それが私の使命だと思って取り組んでいます。

「自分の命の使い方」がわからなくなってしまった日本人

寺島 いまのお話はとても大切です。77年前の敗戦に次ぐ、「経済的敗戦」ともいうべき状況の中で、日本再生に向けてリスタートするため、日本人はいまこそ原点に立ち返らないといけない。個々人も、また本誌読者の皆さんも、人生を振り返って自分の原点を思い出してみることが、いまは必要だと思います。

構成 本誌編集長 前原政之
撮影 中村ノブオ


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本記事は、月刊『理念と経営』2023年 12月号「巻頭対談」から抜粋したものです。

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