『理念と経営』WEB記事

「働く」ためには「書く」しかなかった

芥川賞作家 市川沙央 氏

今年7月、「筋疾患先天性ミオパチー」という自身と同じ難病の女性を描いた小説『ハンチバック』で芥川賞を受賞した市川沙央さん。小説家を目指してから20年以上、落選続きだったそうだが、なぜ彼女は諦めることなく書き続けてこられたのだろうか。

「社会とつながりたい」飢渇感が執筆の原点

筋力が低下する難病「筋疾患先天性ミオパチー」を患い、14歳から人工呼吸器と電動車椅子を使用する生活を続ける市川沙央さん。同じ難病の女性を主人公にした『ハンチバック』で、第169回芥川賞を射止めた。

小説を書き始めたのは、同世代が就職する20歳を過ぎた頃だ。一体どのような感情に突き動かされ、執筆を始めたのだろう。

市川 芥川賞を受賞したといっても、まだ実感が湧きません。作家の肩書きにも慣れていない上に、芥川賞までくっついてきて、ますます現実感がないというのが正直な気持ちです。

そもそも私が小説と出合ったのは、少女期に手に取った集英社のコバルト文庫がきっかけです。SFやファンタジーの世界にどっぷりはまったんです。10代の頃は小説家になる気など毛頭なく、あくまで一読者として作品を楽しんでいました。ただ振り返ると、多くの作品を読み耽る時間は、小説家の素養を身につけるトレーニングになっていた気がします。

20歳を過ぎると同世代が就職し始めました。療養生活という“引きこもり”になっていた私にも、社会とつながりたいという飢渇感のような感情が溢れてきました。「自分も何か仕事をしてみたい」。そう考えたときに、思い浮かんだのが小説家という職業でした。

他にやれることがない中、いよいよ小説を書き、文学賞への投稿を始めるんですが……。そこから、泥沼に浸かったような20年間が始まります。中間選考は通っても最終選考にはどう足掻いても辿り着けない。そんな先が見えない、もやもやした歳月が過ぎていくのです。

島田雅彦さんのファンだった市川さんは、まず純文学の執筆に取り掛かる。ところが全く筆が進まない。それならばと方向転換し、SFやファンタジーなどエンターテインメント系の作品を中心に執筆活動を続け、毎年公募に挑戦する。しかも20年以上もだ。市川さんはなぜ、落選し続けても自身の才能を信じ、書き続けることができたのだろうか。

市川 まず私は負けず嫌いなんです。それと本来なら趣味レベルである小説の投稿に、生活の心配をせず打ち込める環境があったのも大きい。さらに言えば父の影響です。父は若い頃に起業し一代で身を立てた人で、商才とリーダーシップがあり、時代の風向きを読んで舵取りすることに長けていた。そういうサクセスストーリーを耳にして育ったので「その血を引く私も何か立派なことを成し遂げられる」と信じて疑わない確信や願望があったんです。

とは言うものの、「もうやめよう」と思ったり、高いビルから飛び降りたいと思ったこともあります。高次選考に残り編集部から声をかけられたけど、一度も原稿を見てもらえず、返事をもらえなかったり。その放置状態からの10年間は、精神的にかなり辛い時期でした。

それでも生来のポジティブさというかレジリエンス(回復力)があるのか、何だかんだ書き続けて生きてきました。辛いときは先人の名言を頼りにしました。例えば浅利慶太さんの「他人の時計は覗かない」「自分だけの時計を持て」という言葉は「人それぞれ光の当たるタイミングは違う」「早咲きもいれば遅咲きもいる」と解釈し、自らの指針にしていました。

私にとって「書く」ことは「働く」ことであり、社会と関わること。社会との関わりのない生活はとても孤独で無為なものです。衣食住に困らないのは幸せなことですが、私はそれだけでは耐えられなかった。だから文章を書いて社会と関わることにしたんです。



第169回芥川賞を受賞した市川さん初の純文学『ハンチバック』(文藝春秋)。小説を書くときは、寝ながらの楽な姿勢で書いているという。「私は、かなり細かいことまでネットで調べて書くスタイルなので、書くのと調べるのとで時間的に半々くらい、そこに小説とは無関係な調べ物の寄り道も加わって……という感じです」

取材・文 篠原克周


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本記事は、月刊『理念と経営』2023年 11月号「特集2」から抜粋したものです。

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