『理念と経営』WEB記事

至高の医療器具を作る町工場の挑戦

株式会社高山医療機械製作所 代表取締役社長 髙山隆志 氏

世界の一流外科医に評価され、海外60カ国に進出した「小さな巨人」たる町工場。この新境地を開いた、4代目の改革の軌跡をたどる。

図面すらない職人技の世界に限界を感じ、ドイツへ

東京・谷中に本社を構える高山医療機械製作所は、創業118年目の老舗だ。髙山隆志社長は4代目に当たる。創業者である曽祖父の代から、一貫してメスなどの医療器具を作ってきた。

1983(昭和58)年、18歳で入社した髙山さんは、その当初から、職人技のみに頼った家業の在り方に限界を感じていたという。東京工業大学附属科学技術高校で専門的な教育を受けたから、金属の素材、熱処理についてなどの知識は「父より僕のほうがあった」という自負もあった。

「例えば、素材がステンレスなのに鉄と同じ鍛造方法をしていたり……。本当は素材に合わせて変えないといけないんです。それに、当時うちの会社には図面すらなくて、見本を見て職人の勘で作るやり方でした。工作機械もなくて、すべて手作業だったし、職人は高齢化していたし、『これでは未来がないな』と思いました」

「会社を変えないといけない」という思いがつのり、88(同63)年、23歳の髙山さんは単身ドイツに渡った。医療器具の先進地であったからだ。

「向こうで働くつもりで行ったんですが、どこの工場も雇ってくれませんでしたね。ただ、仕事場の視察はさせてくれました」

3カ月間の視察で、髙山さんはさまざまな気づきを得た。ドイツでも医療器具作りは職人技ではあったが、工作機械を用いて合理的に作業していた。

帰国後、髙山さんはパソコンを買い、CAD(コンピューターによる設計)で図面が作れる体制を整えた。また、その後、台東区の助成事業も用いて工作機械を3台購入し、作業の機械化を推進した。

「父たちが手作業で仕事をしている傍らで、僕と新しく雇った若手が機械を使って作業をする……そんな時期が続きました」

だが、99(平成11)年、34歳のときに社長に就任すると、そのような併存はもうしていられなくなった。経営者として、赤字と向き合って会社を改革しなければならなかったからだ。

「ムラマサスペシャル」の完成が赤字解消の決め手に

社長に就任したころ、会社には約600万円の累積赤字があった。

「当時、家を建てたくて住宅ローンを組もうとしたら、銀行員が過去3年分の決算書を見て、『会社がこの状態では、ローンは組めません』と言うんです。僕はそのとき初めて、自社の危機的状況に気づきました。父は決算書の読み方なんて知らない昔気質の職人でしたし、僕も経営のことはまるでわからなかったので……」

機械化で生産性を上げるため、手作業しかできない昔からの職人は、次の仕事先も世話したうえでリストラせざるを得なかった。

そのころ、父の代からの付き合いである高名な脳神経外科医・上山博康氏から、「お宅の(手術用)ハサミは2回目から切れなくなる」とクレームが入った。

「職人肌の父は納期に遅れることもよくあったので、『ドイツの医療器具メーカーに変えることも考えている』と言われました」

社長就任直後、経営上の逆境に加え、もう一つの逆境に直面したのだ。

「まあ、僕は逆境とは感じませんでしたけどね。工夫を重ねて技術的なハードルを乗り越えることは、楽しくて好きなので……」

ハサミの素材から変え、焼き入れの方法も変えた。溶接箇所を変え、設計も何度か変えた。試作品を上山医師の元に持参すると、「まだ切れ味が足りない」とダメ出しを受けた。

約半年に及ぶ試行錯誤を重ねた末、追い求めた切れ味と耐久性を持つ手術用ハサミが完成した。それを手術で使ってみた上山医師が感動し、名刀「村正」になぞらえて「ムラマサスペシャル」と命名した。いまや、日本の脳神経外科手術の現場で約9割のシェアを占めるという、「上山式マイクロ剪刀ムラマサスペシャル」の完成であった。

取材・文・撮影 編集部


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本記事は、月刊『理念と経営』2023年 6月号「逆境!その時、経営者は…」から抜粋したものです。

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