『理念と経営』WEB記事
逆境!その時、経営者は…
2023年 3月号
老舗の社運を懸け、“生パスタ”へ挑戦

淡路麺業株式会社 代表取締役 出雲文人 氏
淡路島で100年以上続く同社は、小さなうどん店にルーツを持つ製麺業の老舗。低価格商品の流通で業績が悪化し、廃業の危機に直面するも、若き 5 代目の知恵と粘り強さが老舗再興の契機となった。
明石海峡大橋が開通し、島内の中小企業が苦境に……
「淡路麺業」の本社社屋には、社名が遠くからも見えるほど大書され、その下に「SINCE 1909」という文字が躍る。淡路島で製麺業一筋に、114年歩んできた老舗の、いわば誇りの刻印だ。
だが、その長い歴史のなかで、 12 期連続で赤字に陥り、倒産の瀬戸際に追いつめられた時期がある。それは1998(平成10)年からの 12 年間で、最大の要因は本州と淡路島を結ぶ「明石海峡大橋」が98年に開通したことであった。
すでに四国と淡路島を結ぶ「大鳴門橋」が85(昭和60)年に開通していたこともあり、中間に位置する淡路島は、本州・四国双方の物流網に組み込まれた。そこから、大手メーカーによる低価格の量産品が流通するようになり、チェーンストアも次々開店。島内の中小企業、商店の多くが苦境に陥った。
5代目に当たる出雲文人・現社長は、当時まだ大阪で大学生活を送っていた。
「僕は次男ですし、家業を継ぐ気はなかったんです。でも、大学 3 年のころ、大阪に来た両親と卒業後の進路について話し合ったとき、兄に継ぐ意志がないと聞かされて、『そんなら僕が継ごうか』と……」
就職先も、家業を継ぐための修業のつもりで京都の食品会社を選び、営業スタッフとして働いた。
「そこに5年勤めて、そろそろ淡路島に戻ろうかと両親に伝えたら、『いまの会社にそのままおったほうがええよ』と言われました。その5年間で赤字が深刻になったので、父としては『どうせもうつぶれるもんやから』と、ある程度覚悟を決めていたのです」
赤字が続くなかで、すでに社員は家族のみになっていた。残りはパートタイムの従業員ばかり。先代社長である父・勉さんが廃業を覚悟できたのは、そのためでもあった。文人さんは、老舗再興を親から託されたのではなく、自らの意志で決意したのである。
大手が未開拓の市場――「生パスタ」に社運を懸ける
2005(平成17)年に淡路麺業に入社した出雲さんは、まず、元々製造していたうどんやそばの改良による赤字解消を考えた。そのために、神戸や大阪、京都など、各地の麺の名店を食べ歩いたという。
だが、資本力で勝る大手メーカーのうどんやそばは、淡路麺業の半額から3分の1の安値で売られていた。商品を改良しても、同じ土俵で勝負するのは無理だと思い知らされた。そこで思い付いたのが、製造したことがなかった生パスタへの挑戦だった。
「きっかけは、僕が研究のためにあらゆる麺の名店を食べ歩いた時期に、パスタだけは一度も『麺がおいしい』とは思えなかったことでした。僕はそのときに気がつきました。うどん、そば、ラーメンなど、外食の麺類が全て生麺だったのに対して、パスタだけは乾麺だったと!」
いまにして思えば、それはレッドオーシャンからブルーオーシャンへのシフトであった。ただ、当時はそんな意識などまったくなかったという。
「だって、生パスタに対するニーズ自体がまだほとんどなかったのですから。友人から『パスタは麺で勝負するものじゃない。ソースで味が決まるんだ』と言われて、それも一理あると感じました」
ニーズが可視化されていない分、不安はあったが、出雲さんはたった 1 人で生パスタ作りに挑戦し、そこに社運を賭けた。試作はじつに500回以上に及んだという。
「作れば作るほどわからなくなりました。もちろん、『こうすればこういう食感になるのか』などという変化はわかります。でも、それが果たしておいしいのかどうか、客観的に判断できなかったのです」
そんなとき、島内の名門ホテルの料理長と知り合う機会があり、開発中の生パスタを試食してもらうことになった。
「料理長に『さすがは老舗の麺屋さんやな』と言っていただいて、その言葉が大きな自信になりましたね」
07(同19)年のことであった。
同社のパスタ製造機。長年培った麺作りのノウハウが生かされている
取材・文 編集部
写真提供 淡路麺業株式会社
本記事は、月刊『理念と経営』2023年 3月号「逆境!その時、経営者は…」から抜粋したものです。
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