『理念と経営』WEB記事
伝統を未来につなげる
2023年 1月号
どんな石にも役割がある。人間も同じ。無駄なものは何一つない

第15代目穴太衆頭 粟田純徳 氏
昨年1月に直木賞を受賞した今村翔吾氏の『塞王の楯』。戦国時代を舞台に、若き石垣職人(石工)が「絶対に破られない石垣づくり」に奮闘する歴史小説だ。石工集団は「穴太衆」と呼ばれ、現在も技術を継承する者がいる。粟田さんが語る石積みの魅力と、技術継承の苦悩。
平安から受け継がれる強く温かい「穴太積み」
比叡山延暦寺への登山口、滋賀県大津市坂本は “石垣の町”である。僧侶が暮らす里坊や商家の塀、基礎、側溝などに見事な石積みが施され、重厚な落ち着きがある。
かつて坂本は“石工の町”でもあった。平安時代、延暦寺の造営のために石積みの技術者たちが集まり、穴太という集落に住んだ。互いに技術を磨き “穴太衆”という高度な石工集団が形成された。やがて彼らは全国の城づくりに呼ばれ、名を馳せた。
粟田純徳さんは、その穴太衆の技術を継ぐ唯一の人物だ。今日まで15代にわたって連綿と石積みの技をつないできた。
「穴太積みは、いわゆる“野面積み”です。自然の石をそのまま使い、縦横の目地を通さずにランダムに積むことが特徴なんです」
穴太には「水と仲良くしろ」という言葉がある。常に排水のことを考えて石を積む。自然の石で積むから隙間が空く。これが穴太積みの強さをつくっているという。
「石垣が壊れる一番の要因は土圧と水圧です。それをどう逃がすか。石と石の間にできる空間、いわば “遊び”の部分が大事で、ガチガチに積むとかえって弱いんです」
石垣は前面からの力よりも、後ろから押してくるものに弱いという。だから、常に裏のことを考えて表面の石を支える拳大の「栗石」を奥に詰めていくのだそうだ。
その強さは、2016(平成28)年4月に起こった熊本地震でも判明した。熊本城の石垣で明治期に積まれた部分は崩壊したが、穴太衆が積んだ部分は潰れていなかったのだ。栗石の遊びが地震の力も逃がしたのである。
「穴太積みは強いだけじゃないんです。自然の石なので温かみがある。冷たい感じはしないんです」
強くて、温かい自然な美しさもある。それが穴太積みなのだ。
比叡山の門前町である滋賀県大津市坂本。穴太衆が携わったと思われる多くの石垣を望むことができる
見て盗み、体で覚えた修業時代
粟田さんは中学を卒業すると、すぐに石工の修業を始めた。人間国宝である粟田家13代目の祖父・万喜三さんに師事した。
父の純司さん(14代)は「今どき高校も出ぇへんのは、アカン」と反対した。だが、お祖父ちゃん子だった自分にとって、それは “自然なこと”だったと語る。
「その頃から、祖父さんの技術は絶やせないと思うてましたから」
万喜三さんは非常に厳しかった。「怒られっ放しです」と言う。3年は石を運ぶだけで、積ませてもらえなかった。現場に誰よりも早く出て掃除をし、仕事が終わると道具を片付け掃除をする。
なにより厳しく言われたのは、挨拶だった。「おはようございます」「お疲れさまでした」……。現場を通りかかった知らない人にも、挨拶をするように言われた。
人間としての基本がきっちりできていないと職人としても大きくなれない――。そのことが、自分も親方になってわかったと話す。
万喜三師匠はやってはいけないことは指摘してくれるが、それ以外のことは教えてくれなかった。やはり “見て盗めの世界”である。
石垣の強度を保つ栗石を詰めるようになってからも、粟田さんの詰め方が悪いと師匠は何も言わず、黙って詰めた石を放り出す。
詰め直せ、ということだ。どこが悪いのか、何が違っているのかは言わない。自分で何度もやり直す。師匠が何も言わなければ、それが「良し」の合図だった。
見て盗むとは、なぜ、なぜ、なぜと自ら考えることを身につけさせる方法なのである。
「聞いたもんは三日で忘れるけど、体で覚えたもんは一生忘れへん」
これも、万喜三さんが言っていた忘れられない言葉だという。
青年時代の粟田さん(写真中央左)と祖父の万喜三さん(写真右)。「師匠として名前も呼んでもらえないほど厳しかったが、家に帰れば『明日も頑張れよ』と声をかけてくれる優しい祖父さんだった」と語る
取材・文 鳥飼新市
撮影 亀山城次
写真提供 株式会社粟田建設
本記事は、月刊『理念と経営』2023年 1月号「伝統を未来につなげる」から抜粋したものです。
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