『理念と経営』WEB記事
逆境!その時、経営者は…
2023年 1月号
再建への決意が復活の道をひらく

株式会社三協 代表取締役社長 添田泰弘 氏
事業承継からわずか4カ月後に、本社工場が全焼するという危機に見舞われ、そこにコロナ禍が追い打ちをかけた。2代目社長は、このダブルパンチをどのように乗り越えたのか?
全焼した会社の屋上で得た「天啓」のような使命感
三協は「リネンサプライ」の企業である。おしぼり、マット、タオルなどのレンタル商品を洗濯し、飲食店やホテル、旅館などの顧客に届けることが業務の核だ。本社のある栃木県と、隣接する福島県を中心にビジネスを展開。とくに栃木県内では、レンタルおしぼりのシェアで8割以上を占めてきた。
添田泰弘社長は2代目で、創業者の父(現会長)から2019(令和元)年8月に事業承継を受けた。そこまで7年連続で売り上げを伸ばし、右肩上がりの成長の中での順風満帆の出発であった。
だが、それから4カ月後、会社は最大の逆境に直面する。同年12月26日の深夜、漏電から火災が発生し、本社工場が全焼してしまったのだ。創業50周年の佳節を翌月に控えた中での悲劇だった。
「火事の知らせに飛び起きて駆けつけたら、もう火の勢いが凄まじくて……。真っ赤に燃え上がる工場を呆然と見つめながら、母が『もう終わりだよ』とつぶやきました」
本社工場は全焼。翌日、鎮火後の工場を見て回ると、機械類はすべて黒焦げになるなど地獄絵図のようだった。
添田社長は一人、工場の2階に上ってその様子を見ているうちに涙が止まらなくなり、しばらく嗚咽したという。だが、その後、3階の屋上に上ったとき、突然、「そうか。俺はこの逆境を乗り越えるために生まれてきたんだ」と、使命感にも似た思いが胸の底から湧き上がってきた。
「ただの錯覚だったのかもしれませんが、『天啓』を受けたみたいな感覚でしたね」
その瞬間から、再建に向けての闘いが始まった。
“生命線”である顧客情報が残っていたことが希望の光に
火災による被害総額は、建物・機械・商品・備品を引っくるめて約8億円と算定された。その期の年商に匹敵する額であった。客観的には倒産の危機だったが、添田社長は「絶対に再建する」と強く決意した。
「あきらめなかった理由はいくつかあります。一つは、父が半世紀続けてきた会社を守りたかったということ。また、私は後を継ぐためにずっと勉強をしてきて、工学博士号まで取得しましたから、その努力を無駄にしたくなかった。それと、火事の前まで売り上げが右肩上がりだったことも大きいですね。売り上げがジリ貧だったら、火事を機に廃業していたかもしれません。いちばんの希望の光は、約8000軒の得意先が、そのまま残っていたということです。幸い、顧客情報を入れたサーバーは火元から遠くて無事でした。江戸時代の商人は、店が火事になると真っ先に大福帳を持ち出したと言います。顧客情報こそ会社の生命線であり、うちはそれを失っていませんでした。10カ所ある営業所も無傷でしたから、たとえ工場を失っても製品さえ手配できれば何とかなると思えたのです」
火災の翌月までは、代替品の紙おしぼりを約100万本手配して、それでしのいだ。その後は、同業他社各社におしぼりなどの供給を委託し、三協が回収・配達に特化する形で仕事を続けた。
「多くの同業仲間に助けてもらいました。いちばん力になってくれたのは、東日本大震災で被災したときにうちが助けた会社と、私自身が三協に入る前に修業した業界最大手の会社でした。普段のつながりがいざという時にも活きるのだと、しみじみ思いましたね」
火事の数日後には、会社に「対策本部」を設置し、添田社長が可能な限り常駐して陣頭指揮をとった。3カ月後に対策本部を解散して通常業務に戻したが、その間の社長の仕事量は驚異的だった。
「会社が災害に遭うと、経営者がやるべきことは山のように増えるものです。『火事場の馬鹿力』というのは本当で、当時はパワーがみなぎっていて疲れもほとんど感じませんでした。脳が常にフル回転していた感じで、手を打つためのアイデアがどんどん湧いてきました」
現在の工場内。オートメーション化により、生産性が大幅に向上した
取材・文・撮影 編集部
本記事は、月刊『理念と経営』2023年 1月号「逆境!その時、経営者は…」から抜粋したものです。
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