『理念と経営』WEB記事

老舗を蘇生させた、4代目の決断

アシザワ・ファインテック株式会社 代表取締役社長 芦澤直太郎 氏

2000(平成12)年に4代目に就任した芦澤直太郎氏は、創業100年を機に大改革に踏み切った。社員全員を一度解雇し、再雇用・新創業したのだ。その背景にあった逆境との闘いを振り返る。

下請けから脱却しメーカーになったものの……

1ナノメートルは、1メートルの10億分の1に当たる。この極小世界のテクノロジーを扱う企業が、アシザワ・ファインテックだ。微粒子技術に特化したメーカーとして、幅広い産業の土台を支えている。例えば、自動車ボディ用塗料の粉末を極限まで微細化することで、なめらかで美しい塗装ができる。用途に応じたビーズミル(微粉砕・分散機)を、さまざまな大企業から受注して開発・製造することが、現在のメイン事業だ。

同社は1903(明治36)年、「蘆澤鐵工所」として創業した。119年の長い歴史の大半は、鉄工所として下請けに徹してきた。そして、3代目の芦澤直仁社長(現・会長)時代の84(昭和59)年、ドイツの分散機メーカーとの提携によって、ハイテク機械メーカーへと転換した。

4代目の現社長が入社したのは91(平成3)年。当時すでに、バブル崩壊の影響で受注が激減していた。

「バブルのピーク時と比べ、10億円減、年商ベースで4割も落ち込んでいました。当然、大赤字でした」

前年には現在の習志野市に本社を移転し、新工場も建設したため、その巨額投資も大きな負担となった。低迷打開には、営業で新規開拓をし、独自技術の開発も進めねばならない。だが、どちらもできなかった。

「メーカーに転換したといっても、ドイツのメーカーが開発した機械を日本で製造販売するライセンスを得たに過ぎませんでした。自社開発の技術はなかったのです。それに、長年下請けでやっていた間は営業の必要もなかったため、営業力も足りませんでした」

受注のない日が何カ月も続き、工場が稼働しない日は周辺の草むしりをして一日を終えた。社内全体に暗い雰囲気が漂っていた。93(同5)年には、断腸の思いで社員20人の指名解雇にも踏み切った。

「父は私を、リストラの現場にすべて立ち会わせました。『いずれ社長になるのだから、お前も見ておけ』と言われたのです」

廃業勧告にもかかわらず「険しい道」を選んだ理由

財務的危機から脱することができたのは、97(同9)年、東京・江東区の広い工場跡地に賃貸物流倉庫を建て、安定した不動産収入が確保できたためだ。

そして、2000(同12)年に芦澤さんは4代目社長に就任。その矢先、大きな決断を迫られた。取引銀行から、「赤字続きの機械製造部門を閉鎖して、不動産事業だけに絞るべきだ。御社の状態は銀行として見過ごせない」と言われたのだ。倉庫建設のため巨額融資を受けた立場であり、芦澤さん自身が元銀行マンでもあるため、相手の言うことは痛いほどわかった。

「要は、銀行からの廃業勧告です。会長の父からも、『無理して苦手な機械にこだわらなくてもいいぞ』と言われました。元々私は理工系の勉強が苦手で、大学も法学部です。そのことを踏まえての言葉でした。工場を畳むか否かの決断は、私一人に託されたのです」

芦澤さんたち一族が暮らしていくには、不動産収入だけでやっていったほうが、悠々自適で楽だったろう。だが、芦澤社長は迷いに迷った末、機械部門を存続させる険しい道を選んだ。

「決断した理由は、大きく分けて2つありました。1つは、3代続いた歴史への責任です。父や祖父、曽祖父が汗水たらして守ってきた会社を、終わらせていいのか、と……。もう1つは、うちはお客様に機械を売る仕事ですから、その機械が10年、20年と稼働する間、メンテナンスする責任もありました。それと、当時の私は社長になったばかりで、『まだなんの努力もしていない』という思いも強かったのです」

機械部門の存続を決意した芦澤さんがそのために選んだのは、全社員を一度解雇し、新創業する会社に再雇用するという道だった。そして、元の会社には不動産事業のみを残したのである。

取材・文・撮影 編集部


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本記事は、月刊『理念と経営』2022年12月号「逆境!その時、経営者は…」から抜粋したものです。

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