『理念と経営』WEB記事
企業事例研究1
2022年10月号
そこに愛があれば、会社は必ず変わる

株式会社染野屋 八代目染野屋半次郎 代表取締役社長兼CEO 小野篤人 氏
低価格競争に飲み込まれ、豆腐業界を取り巻く環境は厳しさを増す一方だ。そのなかで奮闘を続けるのが老舗豆腐メーカーの株式会社染野屋(茨城県取手市)である。伝統製法に立ち返ったとうふづくり、独自の販売戦略で活路を見出した、八代目染野屋半次郎こと小野篤人社長の経営哲学に迫る。
「昔ながら」にこだわる理由
東京都をのぞいた関東一円をエリアに、約100台の専用車を使ってとうふの製造と移動販売をしている染野屋。創業は文久2(1862)年、茨城県取手で160年の時を刻んできた老舗である。
小野篤人さんは、偶然にも結婚をきっかけに老舗とうふ店を継ぐことになった。「いまでは、とうふと出合えたことを感謝しています」と語るのだった。
― 奥さんの実家が、とうふ店だったわけですね。
小野 そうです。年商300万円ほどの典型的な家族経営のとうふ店でした。結婚して2カ月後に、義父が急逝したんです。義母が「続けたい」ともらしたときに、思わず「やりましょうか」と口にしていました。その頃、僕はアメリカのメーカーの化粧品や洗剤などをネット販売する仕事をやっていて、時間の自由がきいたのです。
何か手伝えるかなというつもりでした。ところが、義母はつくったことがないと言うんです。それで機械屋さんに一から教えてもらって、とうふづくりを始めました。
―機械と言うのは?
小野 ボイラーとコンプレッサー(圧縮機)です。とうふづくりに使う機械はこれがすべてで、大豆を摺ってボイラーの圧力で釜炊きする。それをコンプレッサーで絞り、おからと豆乳に分離させて固めていくわけです。大豆をいかに甘く炊き上げられるかが勝負なんです。
―それが何年のことですか?
小野 結婚の翌年、99(平成11)年の1月です。いざつくり始めると面白くなりいろいろ工夫して、妻に味見をしてもらって腕を磨いていきました。とうふに関する本も読んで、「豆腐」ではなく「豆富」と書くほうが本質を表していると思ったり……。
―国産大豆や天然にがりを使って昔ながらのとうふをつくるようにもなられましたね。
小野 ええ。とうふって健康というイメージがあるじゃないですか。なのに店には○○化学という社名の入った凝固剤の袋とかがあるんです。大豆も外国産ですしね。これでいいのかなと思って、国産大豆と天然にがりでつくってみたんです。これが美味しい。しかし、売価は一丁200円になりました。それまでは一丁110円です。「200円のとうふなんか高くて売れないよ」と義母は言いました。
―ほぼ倍ですからね……。
小野 これは自分で売るしかないと思い、自家用のステーションワゴンの荷室をとうふが積めるようにホームセンターで買った板で二段に改造して、倉庫にラッパもあったので、それを吹きながら夕方、移動販売に出たんです。とうふと寄せどうふの二品。合わせて5000円になるくらいの品数でしたが、初日から完売しました。
ネット通販をやめ とうふ店経営一本に絞る
移動販売は好評だった。小野さんは、「お客様からたくさんの〝ありがとう〟をもらえました。こんなに楽しい仕事はないと思いました」と話す。
だが、睡眠不足が続いた。ネット販売の仕事が終わるのが深夜。その後、少し寝て、早朝からとうふづくりを始め、移動販売に出る夕方まで仮眠をとる。
そんな日常を5年ほど続け、とうふ一本に絞ろうと決めた。2004(同15)年1月のことである。
―ネット通販より、とうふのほうが魅力があったわけですね。
小野 そうです。ネット通販はあくまでも代理店です。それに比べて、とうふ屋は小さいながらも製造小売りです。本当にやり甲斐がありました。自分が美味しいと思ってつくったモノをお客様も「美味しい」と言ってくださる。こんないい仕事はないと思いました。
このとき、一旦腹を決めると不思議なことが起こるんだということも経験したんです。
―と、言いますと?
小野 もっと多くの人に本物のとうふの味を知ってもらおうと取手の駅ビルに店を出したいと考えていたのですが、個人商店が出店できた前例はなかったのに実現したのです。初日から完売です。一気に売り上げが上がりました。工場が破裂するくらい商品が回転するようになりました。
本家から継いでくれないかという願ってもない話がきたのも、この年でした。本家は「半次郎商店」という、職人が10人ほどいる取手市内で一番大きなとうふ店です。学校給食やスーパーなどにも一手にとうふを卸していました。ただ、跡継ぎがいなかったのです。
合併した後、初めて本家の工場に立ったとき、私のやり方を見ていた先代の染野青市さんが「そこ、違うぞ」と言ったんです。私は思わず「今日からうちの工場なんだ」と、80代半ばの大先輩に怒鳴り返しました。一瞬の気合いというのか、それ以降、青市さんは口を出さなくなりました。娘さんに聞いたのですが、青市さんは「あれは頑固だな。だけどああじゃねぇとな」と私のことを話していたそうです。
―見込みがあるヤツだ、と。
小野 そうみたいです。その後はすごく仲良くなって、青市さんからいろいろな話を聞きました。
兵隊時代の話や歴代当主の逸話などを通して、大正生まれの気骨や日本の伝統文化の良さも知りました。印象に残ったのは薪の時代の話です。薪で炊いてつくるとうふは本当に美味しかったそうです。青市さんはその味を知っている最後の世代でした。
取材・文 中之町新
撮影 小川佳之
本記事は、月刊『理念と経営』2022年10月号「企業事例研究1」から抜粋したものです。
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