『理念と経営』WEB記事
人とこの世界
2022年10月号
今日を精一杯生き“命の音”を出す

ジャズ・ミュージシャン 坂田明 氏
小さなライブハウスから世界有数のコンサートホールまで、各国を巡り、「即興」音楽で人々を魅了する坂田明さん。音楽活動を半世紀以上続けてきたなかで「生きる」ことを問いかけてきたという。坂田さんにとって「生きる」とはどういうことなのだろうか。
やっぱり音楽は雄弁だな、と思った。良質な音楽は音の向こうに言葉を誘い、思惟を促す。言葉の原初形態は “音”に違いない。
6月半ば、新型コロナウイルス感染拡大が少し落ち着いたある日、久しぶりにそんな豊かなひとときを過ごした。
東京・文京区千駄木の小さなバー「Bar Isshee(バーイッシ―)」で、坂田明さんのライブを聴いたのだ。10人も入ればいっぱいになるような空間で、迫力ある生の演奏に包まれた。
坂田さんのサックスが叫びを上げる。高音から低音、そして再び高音へと奔放に行き来する。音の厚みと深みが伝わってくる。それを支えるようにドラムがリズムを刻み、さりげなくベースが彩る。
やがて、サックスを押さえるようにドラムが主張し始め、ベースも声高に語り出す————。
目を閉じて、饒舌な音の掛け合いに身を委ねていると、突然、本物の言葉が聞こえてきた。
「……なんのいんがか、……やさほいさっさ……」
嗄れた声に目を開けると、坂田さんがマイクにかぶりつくように歌っているのだった。
その声の枯れ具合が、いい。ふと、何の脈略もなしに、全国を行脚し、生死を説いた中世の僧“念仏聖”という言葉が頭に浮かんだ。
※
坂田さんは敗戦の年、1945(昭和20)年2月に広島県呉市に生まれた。今年77歳になる。
年を重ねると、やはり音は円熟味を増してくるのだろうか。ご自分でもそう感じることはありますか、と聞くと、こんな答えが返ってきた。
「それはあります。年を取るということは、その分だけ熟練度は増してきますから。だけど僕はもともと下手だったので、伸び代が大きい。いまだに伸びている最中です。変わってきたなとは感じつつも、まだ次のステップに向かっているんです」
大病を経て、音や人生との向き合い方が変わった
ちょうど20年前。2002(平成14)年1月14日の朝、坂田さんは脳出血を起こした。呂律が回らないことに気づいた家人が病院に運ぶ手配をし、30分後には病院にいたそうだ。すぐに治療が始まった。
「切れたのは左です。いまだに体のバランスは少し具合が悪い。言葉もゆっくりになりました。軽かったので、日常生活は何とかなる程度の障がいが残っただけなのは幸運でした」
2週間で退院できた。家に戻ってからは何もしなかったという。安静にしていたほうが今後のためにはいいのではないか、と思った。
ようやくサックスを手にしたのは、3カ月後のことだった。
「毎日ボーっとしていたんですが、友人たちが励ましてくれました。ある時 “生きているということは、まだ俺には役割が残っているんだな”と思ったわけです。役割が残っているならやらなきゃ駄目だ、と」
サックスを吹いてみた。が、音が出なかったのだという。
「鳴らし方を忘れていました。3カ月吹かないと楽器は吹けなくなるんです。結局、一からやり始めるみたいなことになりました」
なぜ吹けないのだろうと考え、試行錯誤しながら毎日吹いた。崩れた体のバランスを直すために、体幹を鍛える運動も続けた。やがて、音が出せるようになっていった。
「昔は力任せに吹いていましたが、その吹き方はもういまはできません。力任せではなくて、自分の息を上手に楽器に入れることによって音を鳴らす。その音の鳴らし方を知り合いのクラシックの先生やジャズの仲間に聞いて、一つひとつチェックしていったわけです」
基本に返って勉強し直すなかで、あっ、こうすれば音が出るのかと実感していけたのは自分にとっては大きな進歩だった、と語る。
「音色は良くなってきたんじゃないかと思っています。じゃ前が駄目だったのかと言うと、そうじゃない。前も自分の人生を賭けて死ぬ気で吹いてきたので、凄い音が出ているんです。でも、もうあの音は出せない。なら、いまできる最大限にいい音を吹ければいいと思っています」
そういうふうに考えられるようになったのも、脳出血を体験したからこそだと言う。明日も生きている保証はない。だから、毎日今日一日を大切に生きていこうと、思えるようになったのだそうだ。
「昔は、能天気で、節度なくいろいろ楽しくやっていました。それに、そんな吹き方していると頭の血管がいつか切れるぞと言われていたし、自分でも思っていましたから……」
そう言って坂田さんは、笑う。好々爺そのものの笑顔になった。
取材・文 鳥飼新市
撮影 鷹野晃
本記事は、月刊『理念と経営』2022年10月号「人とこの世界」から抜粋したものです。
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