『理念と経営』WEB記事

「無謀」といわれても、 世界に挑み続けてきた

カイハラ株式会社 代表取締役副会長 貝原潤司 氏

世界中から愛されるデニム生地メーカー・カイハラの歩みは、生き残りをかけて戦ってきた挑戦の歴史といえる。時代の要請に応え続ける「変化対応力」こそが、〝世界のカイハラ〞たらしめる要因である。

「カイハラデニム」はこうしてつくられた

カイハラは1893(明治26)年の創業で、来期は創業130周年を迎える。
本社がある広島県福山市は備後絣の産地。貝原潤司副会長の祖父が藍染めの備後絣で創業。戦後、日本経済が高度成長期に入り農村での絣需要は減退。生活様式も変化。洋装化への対応として、広巾の絣生地「コニイ」を開発。その技術を活用し、イスラム教徒が腰に巻くサロンに絣デザインを入れ中近東に輸出する。業容は順調に拡大していったのだが、1967(昭和42)年に主要輸出先である中近東の政情不安と決済通貨の英国ポンド切り下げで輸出が急減、売り上げは3分の1に減少した。「カイハラは倒産する」とささやかれ、300人近くいた社員の半数が会社を去った。

この危機に直面し当時、若者の間で流行していたジーンズに着目。海外の情報を基にジーンズ用藍染染色機を自社で設計、製作。カイハラは絣づくりで培った藍染めの知識と技術を生かして、米国産に勝るとも劣らないデニム染色糸を誕生させデニム事業に転換した。
70(同45)年10月、デニム染色を本格スタートさせると、大手繊維商社や紡績会社から染色依頼が殺到し、業績は急回復。以後、デニムの織布、整理加工、紡績の設備を導入し、生地専業で発展してきた。現在は国内シェア50%超を有するばかりか、米国リーバイス社やユニクロ、ギャップなど世界のアパレル大手が同社の生地を採用しており、「カイハラ」「カイハラブルー」は世界のファッション業界に知れ渡っている。

商社任せにせず、自らで要望を聞く

カイハラは分業が一般的な繊維業界にあって、デニム生地の紡績から染色、織布、整理加工までを一貫して行う。品質保証の徹底と安定操業のためだ。
紡績も手がけると表明したときは、業界からなぜ国内で高額な投資をしてまで無謀ではないかといわれた。綿花を糸にするのは紡績会社の仕事。「やめておけ」との声が圧倒的だった。だが、カイハラは乗り出した。「自分たちがつくるものに責任を持ちたい」「あくまでも品質で勝負する」との強い思いから国内で唯一の一貫生産体制を誕生させたのだった。
品質追求の姿勢は創業来のもので、カイハラは常に自分たちがつくった生地でできた商品を使っているエンドユーザーと面談し、生の声を聞いてきた。「サロンをつくっていたときは中近東にも行きましたよ」と貝原副会長。今も海外であろうとユーザーと直接掛け合うダイレクトマーケティング主義を貫く。「商社など他人任せにせず、自らお客様の要望を聞くことは開発にも役立ちますから」と言う。

「中小の機屋が海外に出ても失敗する」といわれていた時代に、あえて商圏を世界に広げてきたのも、カイハラならではの取り組みだ。いまや輸出先は欧米、アジア諸国など30カ国以上にのぼるが、デニム専業でいくと決めたときから、「今後市場の拡大が期待される海外に出なければ生き残れない」と輸出に注力した。世界をマーケットにすることで、繊維産業の衰退に巻きこまれず存続・発展できたのだ。

取材・文 中山秀樹


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本記事は、月刊『理念と経営』2022年8月号「特集1」から抜粋したものです。

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