『理念と経営』WEB記事

お客様から「次も小松で」と言われる会社へ

小松ばね工業株式会社 代表取締役社長 小松万希子 氏

小松ばね工業の3代目社長である小松万希子さんは、母親で先代社長の節子さんの“経営力”を、「なにより実行力と柔軟性、そして決断力にあると思います」と言い、こう付け加えた。

「そんな母の姿を知ったのは、入社してからなんですけど……」と。

弟と2人きょうだい。母の節子さんは、家では会社のことは一切口にせず、子どもたちには「自由にしていいよ」と言い続けたそうだ。

同社は、祖父の謙一さんが1941(昭和16)年に創業し、戦後はカメラのシャッターなど精密な極小ばねを得意とする会社として発展した。謙一さんが急逝して、それまで主婦だった娘の節子さんが会社を継いだ。84(同59)年のことである。

経営を幹部社員に任せていたら、3年目に創立以来の赤字を出した。それを機に、節子さんは必死に経営の勉強を始め、学んだことを自社に落し込んでいった。理念づくりであり、経営計画書の作成であり、5Sだった。体当たりで営業にも回り、右肩上がりに変えた。

他社に勤めていた万希子さんが入社したのは、2003(平成15)年のことである。同社には本社(東京都大田区)の他に宮城と秋田に工場がある。秋田工場への生産管理システムの導入を任されたのだ。

「毎週、月曜から木曜は秋田で週末だけ東京という生活でした」

その仕事が終わると、本社で総務や経理を担当するようになった。07(同19)年には弟の久晃さんも勤めを辞めて入社してきた。“鼎(かなえ)”のように母子3人そろって小松ばね工業を支えるようになった。

リーマン・ショックのときも会社の業績は落ちた。心配する万希子さんに、節子さんは「会社はそんなに簡単には潰れないから、大丈夫」と言った。これは経営基盤を立て直してきたからこその言葉であり、強い財務体質をつくることの大切さを実感した。

社長に就任したのは、11(同23)年のことである。母から娘へと、実に自然な流れで決まった。

「社長になるという自信も自覚も、まだありませんでした。母が会長として後ろ盾をしてくれるという安心感があって引き受けたのです」

まず3年間で母から経営の心得を学びとろう、と決意した。

「会長から後継は『守破離』を基本に、と教えられました。まずは基本を守り、社会情勢を見ながら変えるべきところは変えていくという思いでやってきたのです」

守るべき基本とは「顧客第一主義」の思いであり経営計画書だと話す。

毎年6月、経営計画書を作り、万希子さんは本社と宮城、秋田の3つの工場に行く。社員たちにその年の方針や自分の思いを直接語るのだ。

同社では、経営計画書を毎日1ページずつみんなで読み合わせをしている。全部読み終われば、また最初から読むのだという。

「これを続けてきたことで理念の浸透や目標の共有もでき、会社に一体感が生まれたと思います」

同社はすべて受注生産である。

「お客様に必要とされなければ何も作れないのです。会社が存続するためにも、お客様を一番に考えないといけないと思っています」

取材・文 鳥飼新市
撮影 編集部


この記事の続きを見たい方
バックナンバーはこちら

本記事は、月刊『理念と経営』2022年8月号「特集2」から抜粋したものです。

理念と経営にご興味がある方へ

SNSでシェアする

無料メールマガジン

メールアドレスを登録していただくと、
定期的にメルマガ『理念と経営News』を配信いたします。

お問い合わせ

購読に関するお問い合わせなど、
お気軽にご連絡ください。