『理念と経営』WEB記事

「埼玉のソウルフード」はこうしてつくられた

山田食品産業株式会社 代表取締役社長 山田裕朗 氏

こだわりの食材を使い、尖った味を追求しつつ、他店との差別化を図る―。凌ぎを削る戦いが繰り広げられる外食業界において、「特徴がないのが特徴」と独自路線を突き進む「山田うどん食堂」。いまや、多くの人々に親しまれている〝家庭の味〞は、いったいどのように受け入れられていったのか。

FC展開から直営店重視への転換

首都圏の道路を走っていると、けっこう高い確率で目にする看板がある。〝黄色地に赤いかかし〟が可愛い、山田食品産業が展開する「山田うどん食堂」の看板である。
山田うどんは「埼玉のソウルフード」と呼ばれていて、この看板を目にすると〝うどん食べたい〟と思うドライバーも多いという。

創業は1935(昭和10)年。現社長・山田裕朗さんの曾祖父が地元・所沢(埼玉県)の良質な小麦に着目して製麺業を始めたのがスタートだった。戦後になり、65(同40)年に祖父がうどん店を開業し、先代で父の裕通さんが店舗を拡大していった。

――うどん店を始めたのは、どういういきさつだったのですか?

山田 スーパーや量販店に麺を卸すと値段を叩かれるんです。いくらいい麺をつくっても正規の値段で買ってもらえないのは馬鹿らしい。そう思ったのがきっかけだったと聞いています。当時は、うどん一杯が70円だったそうですが、半額で食べてもらおうと一杯35円にしたんです。安いしうまいというので評判になったようです。
すると地域の土地持ちの人たちが「自分にもやらせてくれ」と店を出すようにもなったんです。

――FC(フランチャイズ)のはしりでもあったわけですね。

山田 そうです。麺を茹でて、つゆをかけるだけだから簡単だったということもあったと思います。

――一時期は280店舗くらいになったと聞いていますが、今はほとんどが直営店だそうですね。

山田 はい。現在は、158店中150店が直営店です。

――FCから直営店に転換された理由は?

山田 1980(同55)年にセントラルキッチンをつくったことが大きかったですね。これはウチの一つの転換点になりました。
ちょうどファミレスがブームになり始めた頃で、そんな時代のニーズに合わせて丼や定食類などメニューを増やしていったんです。そのためにもセントラルキッチンをつくったのですが、メニューが増えると店によって味にばらつきが出たり、反発する店もあったりしました。それで直営店の比率を増やしていったのです。味やサービスを均一にしていくには、やはり直営店だという判断です。

リーマン危機で痛感した「身の丈」を守る大切さ

山田さんは、FCで山田うどんの店舗が拡大する時期に幼少期を過ごした。同時期に、同社は埼玉県西部160校の学校給食にソフト麺を卸してもいて、地域では有名な会社だった。小学生の頃は、よく友人たちから「お前ンち、いいな。社長の子で」と冷やかされたり、囃し立てられ、それが嫌だったそうだ。「絶対に継がない」と決めていたが、大学を出て商社に5年勤め、特別扱いしないという条件をつけて戻ってきた。27歳の時である。

――ずっと「普通の会社」にしたいと思われていたそうですね。

山田 はい。メニューを決めるのも、設備投資をするのも、新しい店舗を出店するのも、全部父親の一言で決まるんです。稟議書もなければ、経営計画書も年度方針の発表もない。そんな会社でした。

――先代は、なかなか先見の明があった経営者だったようですね。いち早くアメリカにFCの視察に行ったり、ロードサイド店やセントラルキッチンも先代の発想だと聞いています。

山田 はい。その通りです。父が現在の山田うどんの原型をつくりました。それだけにワンマンで、自分は絶対に正しいと考えていました。時代もよかったと思うんです。

取材・文 中之町 新
撮影   富本真之


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本記事は、月刊『理念と経営』2022年7月号「企業事例研究1」から抜粋したものです。

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