『理念と経営』WEB記事

「共存共栄」への思いから、 事業創造の知恵は生まれる

八海醸造株式会社 代表取締役 南雲二郎  氏 ✕   歴史家・作家 加来耕三 氏

銘酒「八海山」を手掛ける八海醸造株式会社は、培ってきた発酵技術を生かして大胆な事業展開を繰り返し、堅実な成長を遂げてきた。日本酒市場の低迷で多くの酒造メーカーが苦戦するなか、なぜこの蔵元はこれほど成長できたのか――。本誌連載でお馴染みの歴史家・加来耕三氏はこう切り込んだ。

良質な日常消費財に徹するという、酒造りの基本姿勢

加来 私は八海醸造の「八海山」をこよなく愛する者です。今日は、あんなにおいしい酒を長年つくってこられた南雲社長に直接、舞台裏を伺えることを、楽しみにしてまいりました。

南雲 ご愛顧ありがとうございます。

加来 ある時期から、一部の大吟醸酒にすごい高値がつくケースが増えましたね。一方、八海醸造は価格設定が良心的です。まず、価格についてのお考えを教えてください。

南雲 当社のレギュラー酒に関しては「日常消費財」だと捉えています。あまり価格を上げてしまうと、一般の方々が気軽に飲めなくなってしまう。それは絶対に避けたいのです。
平成の初めごろ、「八海山」の供給が不安定で、2000円の品が5000円ぐらいで流通していた時期があったんですよ。僕は、それはまずいと思いました。2000円で売る酒として十分においしく、割安感を感じていただけるように、当社は酒づくりをしています。5000円で売られてしまったら、同じ品質でも割高感を与えてしまう。それは品質が下がるのと同じことなんです。

加来 「高く売れれば利益率が上がるから、この路線で行こう」とはお考えにならなかったのですね。

南雲 ええ。そもそも、商品が需要に対して少ないのは、メーカーとして供給責任を果たしていないということでもあります。そういう状態を一部の酒造メーカーがよしとしていることは戦略の一つとしてあることだと思いますが、私はレギュラーの商品に関してはそのような方針ではありません。そこで、平成初頭から少しずつ、製造・流通体制を整えていきました。つまり、「いつでもどこでも誰でも高品質な日本酒を適正価格で買うことができる」ことを理想として取り組んできました。

加来 いまのお話と通じることだと思いますが、「八海山」は食べながら飲んでも料理の味をけっして邪魔しないですね。酒の味だけを追求して、料理とのバランスを考慮しない酒造メーカーもけっこうあるんです。「八海山」はそうではない。

南雲 おっしゃるとおりで、当社は「食中酒」を目指しています。食事の味を邪魔しない、もしくは味を引き立てる酒、バランスのいい淡麗な酒を意図しているのです。食事の時間をより有意義にするためのツールとして、当社の酒はある……そう考えているので、酒だけが目立ってしまったら駄目なんです。

加来 そのような考え方は、創業当時からあったものですか?

南雲 ええ。創業者と二代目が酒飲みだったものですから(笑)。
「ずっと飲んでいたいし、おいしいものを食べながら同じ時間を過ごす人たちとコミュニケーションを深める時間にしたい」という気持ちが強くて、自分たちが目指す酒をつくってきたのです。

ベンチャー精神のDNAを父と祖父から受け継いだ

加来 八海醸造は、今年創業100周年の佳節を迎えましたね。われわれから見れば堂々たる老舗ですが、新潟には創業200年、300年という酒蔵が少なくないこともあって、いまもベンチャー精神を大切にされていると伺いました。

南雲 そうですね。創業者は祖父の南雲浩一で、僕は父の南雲和雄から承継したわけですが、二人とも、最初からベンチャー精神に近いものを持っていたと思います。
祖父が南魚沼郡城内村(じょうないむら/現・南魚沼市)で100年前(1922=大正11年)に創業したとき、そこはまだ雪深い過疎地でした。地主だった祖父は、村に病院や製糸工場、発電所などを相次いでつくり、その中の一つに酒造会社もあったのです。つまり、「何もない所に産業を興して、地域を活性化させよう」という思いから始まっています。ニーズがあったから始めたわけではありません。そのため、経営的には苦しい状況が続いたようです。1953(昭和28)年に祖父が亡くなって父が継いだのですが、父は六人兄弟の6番目で、家は継いでいないのです。資産よりも借金のほうが多いような会社だけを継いだんです。
そんなふうに、祖父も父も何もないところから始めたので、いろんな挑戦をせざるを得ませんでした。ある意味、二人ともベンチャー起業家に近かったわけです。周囲には老舗酒蔵がひしめいていて、なかなか市場に入り込めなかったですし。

加来 日本一たくさん蔵元が揃っている新潟ですからね。

南雲 ええ。当時の新潟には市場開拓の余地がなかったので、当社は関東に打って出ました。それは道なき道を拓くような苦闘でしたから、父には二代目意識なんてあまりなかったと思います。そして、父の代で100倍以上の規模に発展させたのです。

加来 南雲さんが社長を継がれたとき(1997=平成9年)、八海醸造はどれくらいの醸造規模だったのですか?

南雲 5000石前後(「石」は体積を表す単位。一石は約180ℓ)ですね。それがいまは約6倍の3万石になりました。コロナ禍の影響でダウンするまで、平成期に会社はずっと安定した売り上げを達成していました。
一方、国内の日本酒市場は縮小していきました。平成初頭には全体で750万石、一升瓶7億5000万本分の市場があったのに、平成の終わりには270万石を割ってしまったのです。

加来 そうした厳しい状況の中で、八海醸造が伸び続けてきたのはすごいことです。その秘訣をぜひ、教えていただきたいですね。

南雲 日本酒は、お客様にリピートしてもらわなければ始まりません。品質が良くても高すぎると日常的にリピートしてもらえませんし、価格が安くてもまずければ、当然リピートしてくれません。当社の商品の強みを挙げるなら、価格と品質のバランスがよく、コストパフォーマンスがいいことだと思います。
ただ、5000石の規模だった時代には、そのよさが全国の日本酒ファンに十分知られていなかったわけです。それを全国に行き渡らせる体制をつくることによって、当社は伸びてきたのです。

加来 そうした体制をつくるために、具体的にはどんな取り組みをなさったのですか?

南雲 製造体制をそのままにして製造量だけを増やすと、日本酒は必ず質が悪くなるんです。ですから、まず製造体制に大胆な投資をして、環境を整えていきました。設備の拡充と刷新、原料確保から人財育成までの体制の整備を進めていったのです。特に大きな改革は、季節労働者だった蔵人( 杜氏のもとで働く職人)を常時雇用にして、社として育成する体制に変えたことでした。

加来 蔵人を常時雇用に、ですか?

南雲 はい。製造部長にあたる杜氏というのは、聡明でないとできない仕事です。頭脳明晰なのに家庭の事情で進学できなかった人が杜氏になる例が、昭和期には多かったのです。しかし、時代が変わり、このままではいまの酒づくりは保てなくなるという危機感があったのです。
幸い、当社には私が生まれる前年から製造部長として正規雇用した高浜春男さんという名杜氏がいたので、彼に育成を委ねて若手蔵人の社員雇用を始めました。高浜さんは、当社の酒の味の土台をつくった大功労者です。

加来 そうしますと、蔵人の社員雇用を昭和30年代からいち早く始めたのが、八海醸造だったわけですね。

南雲 そうなんです。父の発想は先進的でした。ほかの例を挙げると、それまで季節労働者の蔵人は「広敷」という大部屋に雑魚寝していましたが、父はそこを改善し、昭和40年代から季節雇用の蔵人が寝泊まりする個室にしました。当時の当社の規模としては珍しいことでした。

加来 では、その高浜さんが育成した後進の蔵人たちが、いまは八海醸造の社員であるわけですね。

南雲 はい。始めたころには20人に満たなかったと思いますが、いまや60人ほどを製造社員として雇用しています。学歴もさまざまですし、地元に限らず全国各地から移住してきた者もいます。酒の品質を保ちつつ製造する体制を維持するために欠かせない人財群です。

加来 流通の面では、「八海山」を全国区にするために、どう改革していったんですか?

南雲 一つは、スーパーとのお取引を開始したことがあります。それまでは専門の酒販店とのお取引が多かったのですが、それでは「いつでもどこでも誰でも高品質な日本酒を適正価格で買える」状態はつくれないと判断しました。買い物のついでに買えるということが重要だったのです。

加来 それまで取引してきた酒販店は怒ったんじゃないですか?
「俺たちの商売敵に酒を卸しやがって」と……。

南雲 そういう反発は当然あったので、最初は少しずつ始めました。
スーパーとお取引を始めたことは当社にとって大きな転機でしたね。たとえば、あるスーパーさんは、一年間で当社の清酒一種類を今までの取引では想定できない量を売ってくれました。
コロナ禍になったとき、飲食店が大きなダメージを受けましたね。

構成 編集長 前原政之
撮影 中村ノブオ


この記事の続きを見たい方
バックナンバーはこちら

本記事は、月刊『理念と経営』2022年6月号「巻頭対談」から抜粋したものです。

理念と経営にご興味がある方へ

SNSでシェアする

無料メールマガジン

メールアドレスを登録していただくと、
定期的にメルマガ『理念と経営News』を配信いたします。

お問い合わせ

購読に関するお問い合わせなど、
お気軽にご連絡ください。