『理念と経営』WEB記事

どこまでも「お客様目線」であれ

株式会社シャトレーゼホールディングス 代表取締役会長 齊藤 寛 氏  ✕ 早稲田大学ビジネススクール教授 淺羽 茂 氏

わずか4坪の小さな焼き菓子店を、たった一代で、押しも押されもせぬ和洋菓子メーカーへと育て上げた齊藤寛会長。その経営力の核心は、徹底した「お客様目線」にある。「経営戦略」を研究してきた淺羽茂教授に、シャトレーゼ経営の凄みを紐解いていただいた。

淺羽 齊藤会長の初の著書『シャトレーゼは、なぜ「おいしくて安い」のか』を、楽しく読ませていただきました。私は経営戦略が専門なのですが、その立場からも学ぶことの多い内容でした。

齊藤 ありがとうございます。私は昔から勉強するのがあまり好きじゃないんですよ。私の経営は、本で学んだことや人から教わったことではなく、すべて自分で考えたものです。

淺羽 齊藤会長はこれまでの歩みのなかで、常に〝大企業がやらないこと、中小企業だからできること〟に注力してこられました。これは経営戦略としても理にかなったやり方だと思います。

齊藤 私の実家は山梨県勝沼町でぶどう園とワイナリーを経営していまして、長男の私は本来家業を継ぐはずだったんです。ところが、弟が「甘太郎」という焼き菓子店を始めてうまくいかなかったということがあって、私がその焼き菓子店を経営することになりました。偶然からお菓子の世界に入ったわけです。1954(昭和29)年のことで、私は20歳でした。

ですから、私は菓子職人の修業を積んだわけではありません。いま考えてみると、逆にそれがよかったですね。修業して菓子屋になっていたら、自分の技術を認めてもらいたいから、「いかにそのお菓子を高く売るか」を考えたでしょう。高く売れた分だけ、自分が認められたということになるわけですからね。

淺羽 安く売ることに抵抗がなかったからこそ、シャトレーゼの「おいしくて安い」が追求できたのですね。

齊藤 ええ。「おいしくて安い」の追求は、最初の「甘太郎」のころから始まっていました。戦後間もないころですから、お菓子を作るにもサッカリンやズルチンといった人工甘味料が全盛でした。そんな時代に、私の店は最初から上白糖と北海道産の小豆を使って「本物の味」で勝負したんです。おいしいと評判になって、朝から晩まで行列ができました。

淺羽 そこにもすでに、ほかがやらないことをやる「逆張り戦略」が見られますね。

齊藤 そうですね。そこから、山梨と長野県に10店舗ほどを展開しました。ただ、焼き立てを売る焼き菓子店なので、夏の暑い時期には売れない。そこで、「夏に売れるものを作ろう」ということで、創業10年目にアイスクリームの事業を始めました。

アイスクリームはいまのシャトレーゼの主力商品の一つですが、軌道に乗るまでに20年かかりました。実家のぶどう園の敷地をつぶしてアイス工場を作ったのですが、そのころはもうアイスの目ぼしい販路は大手メーカーに押さえられていたのです。それがわが社の最初のピンチでした。

さっぱり売れないアイスの工場を抱えて困り果てた私がひらめいたのが、シュークリームの製造・販売でした。これならアイス工場で作れるし、しかも、アイス製造で培った衛生管理と工業生産の技術が生かせます。それに、シュークリームのような洋生菓子は、消費期限が短くて大量生産・大量販売が難しいので、大手メーカーは手を出したがらなかったのです。

淺羽 まさに「大企業がやらないこと」ですね。

齊藤 ええ。当時の洋生菓子は、洋菓子店が手作りして売る高級品でした。シュークリームも一個50円はした時代です。その時代にあえて「10円シュークリーム」を発売しました。相場の5分の1の値段でおいしいとなったら、売れないはずがありません。一日50万個の製造が常態になって、わが社はピンチを脱しました。

しかも、10円シュークリームを問屋に卸し始めたことで、懸案だったアイスの販路も確保できました。10円シュークリームは、シャトレーゼの原点ともいうべき大ヒット商品です。

淺羽 齊藤会長はピンチに直面されるたびに、見事なアイデアで乗り越えてこられましたね。「ピンチをチャンスに変える」ことの手本を見る思いがします。

齊藤 人間というのは、困ると知恵が湧くんです。何とかしないと大変だと追いつめられて、頭をふりしぼるからでしょうね。逆に言うと、困らないと知恵も出てきません。いまの日本は先進国のなかで際立って生産性が低いと言われますが、それも日本があまりにも豊かになって、人々が困らなくなったからかもしれません。

すべての基本「三喜経営」は両親の教えから

淺羽 シャトレーゼ独特の「工場直売店」というスタイルも、大きなピンチから生まれたものですね。

齊藤 そうなんです。1984(同59)年に、現在の本社と中道工場を作ったときのことですね。新工場が10月には完成するという4月に、主力工場(勝沼工場)が火事で全焼してしまったんです。悪いことは続くもので、営業の要だった弟(当時・専務取締役)が心臓病で急逝して、工場長もがんで亡くなりました。

しかも、経理担当の私の妹も、甲状腺の病気で一年離脱。仕方なく私一人で全部を仕切っていたら、初めて血尿が出ました。そういう状況だったので、小売店に卸していたわが社の商品がどんどん他社商品に置き換わっていきました。私はそのピンチを乗り越えるために、「だったら、売りに行くのではなく買いに来てもらおう!」と決意したんです。

それで、プレハブの簡易な店を作って、売れなくて赤字が続いていたアイスクリームを、スーパーに卸す値段で売ってみたんですよ。

構成 前原政之
撮影 中村ノブオ


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本記事は、月刊『理念と経営』2022年3月号「巻頭対談」から抜粋したものです。

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