『理念と経営』WEB記事

独自の乾燥技術を用いて食の可能性を広げる

株式会社木原製作所 代表取締役社長 木原康博 氏

健康志向の高まりからドライフルーツをはじめとする乾燥食品の需要が伸長し、世界の食品乾燥機市場は着実に成長を遂げている。その中でも他社にない技術を持つのが、来年で創業120周年を迎える木原製作所だ。乾燥機を活用した食の多様性に迫る。

乾湿球温度制御管理ができる乾燥技術を開発

ドライフルーツなのにみずみずしい。色も鮮やかで、フルーツの香りまで残っている――。木原製作所(山口県山口市)の食品乾燥機なら、そんな驚きを感じる製品が作れるという。秘密は湿度と温度を管理して低温乾燥を実現させたことにある。同社が持っていた、たばこの葉を乾燥させる乾湿球温度制御管理のコア技術を食品に応用したのだ。その立役者が4代目の木原康博社長である。


―創業は1902(明治35)年。来年は120周年ですね。
木原 はい。山口県は江戸時代から「防長四白」といって、米・紙・塩・ロウの生産が盛んなところでした。当社も、元々は祖父が海水を煮立てて塩を作る塩竈と小型船舶、いわゆるポンポン船の内燃機を作る会社を創業したのが始まりです。当時は、塩もたばこも大蔵省の専売局の取り扱い品で、たばこの乾燥機も作ったらどうかと勧められたそうです。

―それは何年頃ですか?
木原 1928(昭和3)年です。葉たばこの乾燥機に関しては現存する最も古いメーカーです。たばこは約1週間、昼夜かけて乾燥させるんですが、今の箱型乾燥機になる前は、三階建てくらいの土蔵に葉を吊って、下に鉄管を這わせ、薪やコークスで鉄管を焼いて熱を蔵の中に溜めていくというやり方でした。一週間、人がつきっきりで火の番をしなければならなかったようです。

―大変な重労働ですね。
木原 そうなんです。それで戦後、専売公社(現JT)と共同で湿度と温度を管理できる「乾湿球温度制御式」の乾燥機を作り上げたのです。このコアとなる乾燥技術を海外を含めたその他の乾燥市場に拡大する際、新たに「Dual DryingSystem(DDS)」と銘打って展開を図るようにしました。
 たばこの葉は単に高熱の温風を吹きかけるだけでは真っ黒になって、葉巻のような色にはならないんです。良い色のたばこの葉にするためには、密閉した箱の中で40度くらいの温風を24時間循環させる。すると中の湿度が100%近くになり、たばこは生き延びようとして、呼吸しやすいように自ら澱粉を糖に変え始めるんです。そのときに色が緑色からだんだん黄色に変わっていくんです。

―植物の不思議な力ですね。その環境を作るために乾湿球温度制御管理の乾燥技術が必要だったのですか。
木原 そうです。たばこを発酵熟成させながら水分を抜いていく、つまり乾燥させていくというのが、弊社の元々の技術です。

父の大病で跡を継ぐも時代の波に洗われる

 木原さんは、一度も「会社を継げ」という具体的な話はされなかったという。しかし、漠然といつかは自分が継ぐのだろうな、と思ってはいたそうだ。
 そんな思いがあったから、東京の大学を卒業してアメリカに留学したとき、将来何かの役に立つかもしれないとビジネスプログラムを選んだ。その留学生活が終わろうとしていたとき、日本から一本のメールがあった。

―入社された経緯は?
木原 父にがんが見つかったというメールが届いたんです。大きさを聞くと8センチもあるというんです。これは大変だと、すぐに日本に戻りました。やはりアメリカに留学していて、一足先に日本に戻っていた弟と一緒に入社しました。2003(平成15)年、25歳のときでした。

―会社はどんな様子でした?
木原 ほのぼのというか、のんびりしているなという印象でした。当時は売り上げの8、9割がたばこの乾燥機で、みんなが和気藹々と仕事をしている感じです。
 地域と品種にもよりますが、たばこ収穫は5月から8月が最盛期なので、夏の間はすごく忙しいんです。全国に13の事業所がありますが、乾燥機にトラブルが起こったら夜中でも、休みの日でも飛んでいくんです。シーズンが終わると、ゆっくり農家まわりの営業に出る。一生懸命尽くしていたら更新のときに、また新しい機械を買ってもらえるという。

― だから、アフターフォローに徹していたということですね。
木原 はい。さすがに部品代は頂戴していたのですが、呼ばれて伺ったときの交通費やメンテナンス費はいただいていませんでした。
 私も最初の2年間くらい農家さんをまわっていたのですが、高齢化が進み、たばこ農家が減っている状況を実感しました。さらに世界的な禁煙の流れの中で、JTがたばこの減反も打ち出したりして、すごい危機感を持ちました。

―そんな中で会社を継がれることになったわけですね。
木原 幸い父のがんは大事に至らなかったのですが、「もうたばこだけに頼っていける時代じゃない。世代交替するなら早いほうがいい」と、社長を変わりました。

―2008(平成20)年ですね。
木原 そうです。財務体系を作り直したり、営業目標を個人の目標にまで落とし込むようにしたりと改革を進めていこうとした矢先、リーマン・ショックが起こりました。父がやり始めて、売り上げの2割ほどになっていた半導体機械のOEM事業が、その影響で一挙にゼロになりました。

取材・文/中之町 新
撮影/手島雅弘


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本記事は、月刊『理念と経営』2021年11月号「企業事例研究1」から抜粋したものです。

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