『理念と経営』WEB記事

諦めずに挑戦していれば夢は必ず実現する

盲目のヨットマン 岩本光弘 氏

 2019(令和元)年4月20日午前9時。アメリカ西海岸のサンディエゴを出港した小型ヨットが、55日間かけて約13000キロを無寄港で航行し、いわき市(福島県)の小名浜港に無事到着した。
 船長は盲目のヨットマン岩本光弘さんだ。パートナーはダグラス・スミスさんである。岩本さんは日焼けした無精髭の顔をほころばせ、万感の思いを込めて、こう語った。
「ありがとう。諦めずに夢を実現できた私は世界一の幸せ者です」
 全盲のヨットマンによる無寄港太平洋横断は史上初だという。
 この日、ヨットのもやいロープを取ったのは母親だった。岩本さんのたっての願いで、故郷・熊本から駆けつけてきていたのだ。
「目が見えなくなった時、『なんで俺を生んだ。こぎゃん人生なら、生まれてこんほうがよかった』という言葉を母に投げつけたんです。母は黙っていました。それがずっと心の傷になっていたんです」
 母に、接岸のもやいロープを取ってもらった時、その傷もスーっと癒えていったという。

「お前が見えなくなったのには意味があるんだ」

 岩本さんは1966(昭和41)年に熊本県天草に生まれた。先天性弱視で視力は0.05ほどしかなかったが、野球もしたし、自転車にも乗る活発な少年だった。
 ところが13歳の頃から、さらに視力が落ちてきた。16歳の時、階段から転げ落ちて膝を擦りむいたことがあった。母が「明日から、この杖を持って歩きなさい」と白杖を差し出した。あの言葉をぶつけたのは、その時だった。
 岩本さんは、視力をなくすことを受け止め切れなかったのだ。
 ある夜。歯ブラシにつけようとした歯磨き粉を指につけてしまった。自分は歯磨きすらも満足にできない人間なのか――そう思った。
「人に迷惑をかけて生きていくのなら、死んだほうがましだ」
 海に飛び込んで死のうと橋まで歩き、欄干に左足を掛けた。だが右足にどうしても力が入らない。一睡もしていないせいだと思い、ベンチで少し眠った。小さな頃からよく面倒を見てくれていた叔父が夢に出できたという。
「夢の中で『お前が見えなくなったのには意味があるんだ』と言うんです。ハッとして起きました」
 どんな意味があるのかわからなかったが、とにかく死んではいけないということだなと思った。
 しばらくすると、それまでは指につけていた歯磨き粉を歯ブラシにつけられるようになっていた。
「自分では生涯できないと思っていたことが、繰り返し挑戦しているとできるようになるんだということがわかったんです」
 まず白杖を持って家の外に出た。車の音が聞こえると怖かった。だが、角を一つ、通りをまた一つと越えていくごとに自信がついた。それは大きな喜びだった。それからは柔道や走り幅跳び、マラソンといろんなことに挑戦した。物理の先生に勧められてアマチュア無線を始めると、英語を話したくなり、ついにはアメリカの大学への留学も果たした。
 帰国後、筑波大学附属盲学校の教員になってからも英語の勉強を続け、その教室でシカゴ生まれのキャレンさんと出会い結婚した。
 引っ越した千葉の稲毛海岸に貸しヨットがあった。中学・高校とヨットをやっていたキャレンさんに誘われて小さなヨットに乗った。これがヨットを始めるきっかけになった。
 やがて日本視覚障害者セーリング協会に入会し、世界選手権に出場するほどまでに技術を磨いた。

一度目の渡航失敗――
失意の中その意味を考えた

 ヨットの魅力はどこにあるのだろう。岩本さんは、言う。
「自然との一体感ですね。モーターがないので風や波の音、海鳥やイルカの鳴き声、クジラの潮吹きの音なども聞こえます。風や太陽の光も肌で感じられ、すごく気持ちがいいんです。私たちは自動車の運転はできませんが、広い海では障害物にぶつかる危険も少ないので、乗り物を操縦できる。その楽しさも大きいんですよ」
 ヨットを始めて2年ほどした2004(同16)年、初めて長距離航海に出た。愛媛県の今治から東京までのセーリングに同乗したのだ。
「ヨットは風さえあればどこにでも行けるんだなと思いました。なら世界一でかい太平洋を渡ろう。それが自分の夢になりました」

取材・文 鳥飼新市/ 撮影 手島雅弘
写真提供 岩本光弘



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本記事は、月刊『理念と経営』2021年6月号「人とこの世界」から抜粋したものです。

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