『理念と経営』WEB記事

与えられた環境で精一杯に頑張るとそこから好循環が始まった

株式会社HERO MAKERS.
代表取締役社長 高森勇旗 氏

 それは桁違いだった。これがプロの実力か――。努力を重ねても試合に出場できず、そのうち練習にも身が入らなくなった。当然、チャンスにも打てない……。自暴自棄に陥っていた高森さんを変えたのは、あるベテラン選手の一言だった――。

プロのすごさに絶句した

高森勇旗さんは、2006(平成18)年、高校生ドラフト4位指名で横浜ベイスターズ(現横浜DeNAベイスターズ)に、(捕手・左打者として)入団。夢と希望にあふれてスタートしたプロ野球人生だったが、初めて迎えたキャンプ初日に、その自信は粉々に打ち砕かれた。

高森 プロの世界は異次元でした。先輩捕手がセカンドに投げるボールは、今まで見たことのないようなすごい弾道だったし、投手の球をブルペンで受けると、ボールに腕が追いつかずスルーしてしまう……。コーチからは、「ここはプロ野球なんだぞ」と檄が飛びました。
 キャンプが終了して二軍の試合が始まっても、僕は試合には連れていってもらえず、コーチ陣とマンツーマンで猛特訓。手の皮がボロボロになるまで振り込みをさせられました。血と汗でバットが握れなくなってもテーピングでバットを手に縛り付け、練習を続行。「もう無理です」とこぼしても、「まあ、いいからやれ」と言われるだけ。
 理不尽にも思える練習でしたが、自分で考えるトレーニングは、結局自分の能力の範囲内の練習でしかないわけです。体がもっとも成長する大事な時期に徹底して限界突破の練習をすることで成長できるのです。
 実際、三年経ったころには、入団当初とは比較にならないほど強い体と技術を手に入れました。3年目の成績は、イースタンリーグで、3割0分9厘。112安打で最多安打のタイトルを獲得。デイリースポーツの「技能賞」、日刊スポーツの「ビッグホープ賞」も獲得しました。

大先輩が不遇の中で教えてくれたこと

 上り調子の流れが変わったのが、4年目だった。現在、米メジャーリーグで活躍中の筒香嘉智選手が、ドラフト1位で入団してきたのだ。当時、高森さんは捕手から内野にコンバートされていたが、当時の筒香選手も内野手。それに加え、若い左打者がたくさんいたためポジション争いが過熱。四年目の高森さんは、ベテラン扱いとなり、出場機会が激減した。
 
高森 会社員は、入社して20年、30年かけて出世していきますが、野球選手の場合は最初の5年間くらいが勝負で、そこで評価されないと、道はほぼ閉ざされます。そういう焦りもあり、「昨年はタイトルも獲得した自分が、どうしてこんな仕打ちを受けなければいけないんだ」とふてくされていました。
 試合に出場できないので、練習に身が入らない。練習しないから、たまに訪れたチャンスで結果が出せない。チームメイトには自分がいかに不遇であるかを愚痴り、首脳陣に対する態度も悪くなる。使う側からすればますます使いたくなくなり、どんどん悪循環にはまっていきました。
 
 そんな高森さんに大きな転機をもたらしたのが、大先輩の佐伯貴弘選手だった。1998(平成10)年のリーグ優勝にも貢献した横浜のスター選手だったが、当時は高森選手と同じ二軍にいて、時々、代打に出る程度だった。
 
高森 当時の佐伯さんは、いわば僕よりも不遇な環境でした。にもかかわらず、毎朝六時半に球場に来て、ウエイトトレーニングを一人で二時間きっちりこなし、文句も言わずに球拾いもしている。僕はそんな佐伯さんの姿をずっと見ていましたが、「俺には関係ない」と、冷めた気持ちでいました。
 そんな中で迎えた二軍のファン感謝デー。すでに戦力外通知を受けていた佐伯さんは、スーツ姿で球場に現れて、涙ながらにこうあいさつされたのです。
「(今年)2010年は、佐伯貴弘にとって最高の年になりました」
 僕は、その言葉を聞いた瞬間、涙がどっとあふれ出しました。大活躍してきたスターが不遇な風雪に耐え、結局、クビになったにもかかわらず、「最高の年になった」と誇らしげに辞[や]めていく。その横で自分は、ひたすら愚痴や文句を言っている。情けなくて仕方がなかったのです。


取材・文 長野 修
写真提供 株式会社HERO MAKERS.

本記事は、月刊『理念と経営』2021年4月号「小特集」から抜粋したものです。


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