『理念と経営』WEB記事

祖母の精神を核とし新生荻野屋として挑む

株式会社荻野屋
代表取締役社長 高見澤志和 氏

荻野屋といえば「峠の釜めし」である。弁当業を始めて二〇二〇年に一三五周年を迎えた。その歴史は時代の流れを受け、山あり谷ありだった。それでも尚、昔と変わらずお客様に愛される釜めしを提供できている秘訣は、常に「お客様に喜んでいただきたい」という祖母・みねじ氏の経営哲学と、六代目現社長・高見澤志和氏の釜めしの枠を超えたさまざまな挑戦にあった。

”まごころ経営“を先代の急逝で受け継ぐ

「峠の釜めし」で知られる荻野屋は、現存する最古の駅弁屋だという。創業は一三六年前。信越本線の横川駅(群馬県)が開業した一八八五(明治18)年のことである。塩おにぎり二つに沢庵二切れを竹の皮に包んで販売した。峠の釜めしの誕生は一九五八(昭和33)年のことだ。四代目のみねじ氏が「温かい弁当を食べたい」という旅行客の声を、なんとか実現させようと苦労して作り上げたのだった。峠の釜めしは、今もかわらないロングセラー商品である。

―峠の釜めしのヒットの理由は何だとお考えですか?
高見澤 祖母のみねじがしっかりとお客様に向き合い、温かい家庭的なお弁当を食べたいという要望を真摯に捉えて、それを実現させるべく努力したことだと思います。いろいろ試行錯誤して陶器の容器を使うことに決めた。弁当といえば木の折箱という先入観も破りました。それもお客様にとっては新鮮だったのだと思います。

―みねじ氏は、社是を残されているそうですね。
高見澤 はい。「感謝・和顔(わげん)・誠実」です。これは従業員一同に浸透させるように、今でも毎日の朝礼で唱和しています。お客様に尽くして喜んでいただくことが、祖母の経営哲学でした。お客様にまごころを買っていただくことの大切さを常に語っていたそうです。その精神も自分たちの行動規範として実践しています。

―みねじ氏の思いを継いでおられるわけですね。入社は二〇〇三(平成15)年ですか。
高見澤 そうです。大学を卒業しロンドンに留学していたとき、父が急死して呼び戻されたのです。正直、会社を継ぐ気持ちは八割方なかったのです。ところが父の死で遂に自分の番がきたか、と感じたのを覚えています。

―そのとき会社はどんな状態だったのですか?
高見澤 弁当事業をはじめ、ドライブイン事業、サービスエリア事業もちゃんとしていて、経営的に特段問題があったわけではありませんでした。ただ、財務諸表を見たときに借入金の多さに驚愕しました。年間の売り上げ分に近い借金があったのです。しかし、日々の売り上げもある程度はあったし、明日、明後日にどうにかなるという状況ではなかったですね。

急拡大への危機感から峠の釜めし以外に挑む

列車は碓氷峠を越え軽井沢駅に行くために、横川駅で急坂に強いアプト式機関車を連結する。そのため横川駅では長時間停車した。その時間に峠の釜めしはよく売れた。ところが、やがてモータリゼーションの時代を迎える。観光の足が鉄道から自動車に変わっていったのだ。荻野屋は先代の時代にドライブイン事業や高速道路のサービスエリア(SA)事業に積極的に乗り出し業績を上げていった。

―借入金の原因は何ですか?
高見澤 ドライブインなどの建設が主な流出源です。九八(同10)年の長野五輪に向けて急ピッチで進めた拡大路線の結果ですね。長野五輪の年をピークに観光バスの予約も徐々に減り、売り上げの減少が始まっていました。しかし店舗を見ればお客様はたくさん来店いただけており、日銭も入るわけで危機感がなく、いわば会社全体が"茹でガエル"状態になっていたように思います。

―その中で、一人、危機感を持たれていたそうですね。
高見澤 このままではまずいんじゃないかと思っていました。それで思い切って、まず荻野屋の象徴である峠の釜めしに手をつけました。当時、横川と諏訪に工場があったのですが、そこ以外では峠の釜めしはつくらないという方針があったんです。一つは衛生面のこと。もう一つはエリア戦略というか、外に出すと希少価値が下がるという理由でした。あえて私はカリフォルニアの駅弁フェアに出店したのです。海外でやれればどこへでも出られるだろうという発想でした。どうすれば同じ味の峠の釜めしが提供できるのか。調理法を見直すなど、いろいろ知恵を絞りました。

―大成功だったと聞いています。
高見澤 非常に好評でした。この成功以降、全国の百貨店の催事に参加するようになりましたし、なにより社員の変化に対する意識を変えることができたと思います。

―今は容器も紙になっています。
高見澤 包材パッケージブランドのWASARAさんと共同でつくりました。前々から陶器は重いとか、バス旅行など食べた後の釜の処理に困るというお声を聞いていたのです。一〇年ほど前、峠の釜めしを飛行機の中で食べる"空弁"にできないかというお話をいただきました。空弁になれば売り上げも担保できると、容器開発に取り組んだのです。

―評判はどうですか?
高見澤 フォルムの美しさや色合い、質感なども含めて、とてもご好評をいただいています。


WASARAと共同開発した紙容器。2013(平成25)年度にグッドデザイン賞を受賞

―他にもさまざまな改革をされてこられましたね。
私は峠の釜めしの他にもう一つ経営の柱をつくりたいとも考えていて、ドライブインやSAで販売するお土産品に洋菓子もつくりました。このときに荻野屋ではない名前で展開したほう
が可能性が広がると思い、新しいブランドも立ち上げました。同時にドライブインやSAの店舗のリニューアルも行い、レストランのメニューをより専門性の高いものに変える一方で、フードコートのスペースを大幅に広げたりしたのです。

―上信越自動車道の横川SAは話題になりましたね。
高見澤 峠の釜めし誕生から五〇年記念事業の一環という意味合いも持たせて改修したのです。かつての横川駅の情景を再現しようと、当時走っていた列車を展示しました。その中で峠の釜めしも食べられると話題になりました。

―新しい柱として見えてきたものはあったのでしょうか?
高見澤 一つ思ったのは、これまでの観光主体からより日常に近いところを目指すのは、戦略として有効ではないかということです。ドライブインで提供していたラーメンや焼きそばなどを店舗として独立させて、地域の商業施設の中で展開していこうというチャレンジも始めました。


2009(平成21)年にリニューアルオープンした上信越自動車道横川サービスエリアの店内。実際に使用されていた車両の一部が展示され、その中で釜めしを食べられるということで、大きな話題を呼んだ

取材・文 中之町 新
写真提供 株式会社荻野屋

本記事は、月刊『理念と経営』2021年4月号「企業事例研究1」から抜粋したものです。


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本記事は、月刊『理念と経営』2021年4月号「企業事例研究1」から抜粋したものです。

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