『理念と経営』WEB記事

君子は義に喩(さと)り、小人は利に喩る(下)

子罕に利を言う、命とともにし、仁とともにす

前回は、義と利に関して述べました。今回は利に関して孔子の考えをお伝えし、君子について最後に子路に伝えた孔子の言葉でまとめたいと思います。

「子罕(しかん)第九」に「子罕(まれ)に利を言う、命(めい)とともにし、仁(じん)とともにす」という章句があります。伊與田覺先生は「先師は、まれに利益について言われた。その時には、常に天の命や人の道の本である仁に照らし合わせて話された」と解釈されています。

ここの章句は読み下しとして「子罕に利と命と仁とを言う」と述べる儒家もいます。これは利と命と仁を横並びで言っているように見えますが、命や仁はあまりにもその道が大きいからです。利とは次元が異なります。

伊與田先生は、利と命と仁を横並びにはされず、利を考えるときには天命に照らし合わせ、仁を根幹にして、孔子の考えを述べておられるのです。君子は、利を思うときにも、そういう天命や仁を考慮されて生きられたわけです。現代も同じです。

子路が孔子に「君子の条件」について、質問を重ねていきます。孔子はそれに対して「自分の身を修め、人を敬うことだ」「自分の身を修め、人を安んずることだ」「自分の身を修めて天下万民を安んずることだ。天下万民を安んずることは、堯(ぎょう)、舜(しゅん)のような聖天子でも、頭を悩まされた」と、丁寧に応じています。

この孔子の答えを、まさに実践したのが、『論語と算盤』で知られる渋沢栄一翁です。

渋沢翁は1840(天保11)年2月13日、現在の埼玉県深谷市血洗島の農家に生まれました。当時はもちろん、士農工商という身分制度の時代でした。富農であった渋沢家は、藩主から御用金を差し出すように命じられました。渋沢翁が17歳のときです。自分たちが汗水流して働いて得たお金を、身分を笠に着た役人に強要されたのです。当時の封建的な習わしの一つでした。

相手は権力を持っていますから、他の者は従いますが、栄一少年はこの理不尽な態度を許せませんでした。打ち首になるかもしれないのに、絶対に首を縦に振らない。腹が据わっていたのです。役人は捨てぜりふを残してその場を立ち去ります。

なぜ、渋沢少年は断固として応じなかったのか、若くして権力をはねのけることができたのか――。

その理由は、幼いころから『論語』を中心に学び、理に適わないこと、道義に反することには敢然と立ち向かう、強い精神力を養っていたからです。後に日本近代化の礎となった「富岡製糸場」の初代工場長となり、第一国立銀行仙台支店を指揮した、従兄の尾高惇忠のもとに通って、四書五経をしっかり学びました。ですから、「道義に喩る」人だったのです。

同時に、フランスへ行き、『論語』に加えて、立派な国にするには殖産興業も重要であると気づいていました。諸外国と対等に渡り合うには、経済観念である算盤、つまり、「利」も学んで、日本を豊かな国にしていかなければならないと考えたのです。

渋沢翁はその後、近代日本の「資本主義の父」と呼ばれるようになります。ただ、渋沢翁の資本主義はわれわれが想像する、現在のような「欲望的な資本主義」でもなければ、貧富の差を生む「株主資本主義」でもありません。いわば「論語と算盤合一主義」でした。論語とは「徳の実践」のことであり、算盤とは「経済」のことです。単に資本に任せて横暴を振るうというものではない。世にいう「合本主義」です。

合本主義とは、一人の資本家や一部の者だけが甘い汁を吸うという資本主義ではなく、公益のために、一人でも多くの人から資本を集めて産業を興し、国を富ませ、民を豊かにしようとする考え方で、渋沢翁の理念であり思想です。道義にきちんと喩るものです。

道徳をもって経済をコントロールすることを非常に大事にしました。さらに言えば、道徳も経済も一つでなければならないという「道徳経済合一説」を生涯説かれた人です。道徳と経済は車の両輪の如きものです。徳の実践は人間社会を向上させるためにあり、世を治め、民を幸福にするには、正しい経済行為も欠かせないという考えです。


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本記事は、月刊『理念と経営』2021年1月号「論語と経営――「社長塾」より(45)」から抜粋したものです。

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