『理念と経営』WEB記事

君子は義に喩(さと)り、小人は利に喩る(上)

『論語』の実行がやがて利益をもたらす

『論語』には、「君子」や「小人」という言葉がよく出てきます。

「君子」とは指導的な立場にある人のことを含めて、五徳(仁・義・礼・智・信の五つの徳)を備えた立派な人物、あるいは、絶えず「義」を思い、立派な人間になろうと努力する人を指します。

一方、「小人」とはその逆で、道理や義に疎(うと)い人、あるいは、志よりも目先のことばかりを追いかける、打算的な不仁者を指します。不仁者とは、人に対する思いやりに欠け、自己中心的な考えの強い人のことです。

スペインの哲学者、オルテガは、権利よりも自分の義務を慮(おもんぱか)り、公益に尽くし実行する人間を「精神的貴族」と定義し、与えられた義務も果たさず、権利ばかりを主張する人間を「精神的労働者」と定義しています。「貴族」や「労働者」は階級的な意味ではなく、その精神のあり様を示しているのです。

社会的に地位の高い人が、自社の賃金以外に取引先から裏金を得て申告もせず、会社側に対して「法的責任はない」とうそぶいたり、議事録がないとか、正式記録を黒く塗りつぶしたりなど、どんなに指導的立場にあろうと、オルテガから見れば義務をわきまえぬ「精神的労働者」です。

『論語』の「里仁篇」には次のようにあります。

子曰わく、君子は義に喩(さと)り、小人は利に喩る(里仁第四)
<先師が言われた。「君子は、義に敏感であるが、小人は利に敏感である」>

孔子はこう言うのです。君子、つまり立派な人物は、物事の判断や実践をするとき、道義を基準にするが、小人、つまり、つまらない人間は一事が万事で、私利になることしか考えないし、実行もしないと。

伊與田覺先生は、次のようにおっしゃっていました。

「君子は義に喩り、小人は利に喩る」とは、まったくそのとおりでありまして、その人がどれだけ「人さまのために」自分を犠牲にしておられるか、逆に、いかに利益本位にやっておられるかで、その人格、品性の程度がわかります。自分の利益本位にことを行う人は、つまらぬ人で、孔子が「利に放(よ)りて行えば、怨(うらみ)多し」と言われたように、怨がついて回り、人から嫌がられます。

われわれの経営も同じですね。『日本経済新聞』夕刊の「人間発見」に5回にわたり、虎屋の黒川光博会長のことが連載されていました。青年会議所の大先輩ですし、弊誌にもご登場いただきました。霊山歴史館での「社長塾」でもご講演を賜り、私がわかいときに音羽の開店にも、池田JCのご講演の後にわざわざお見えくださいました。

何故、創業500年も続いておられるのか、利より義を大事にされたからだと思います。いろいろな企業を見ていますが、結論は伊與田先生がいわれるように「利に放(よ)りて行えば、怨(うらみ)多し」になるのですね。講師は理を否定しているのではありません。しかし、義を無視した利を否定しているのです。

伊與田先生はさらにこう続けておられます。

ところで、『易経』の中に「利は義の和なり」という言葉があります。私は何と偉大な言葉だろうかと思います。これは「人さまのため、人さまの犠牲になる」ことが結局自分に幸福をもたらすという教えです。『論語』の教えが少しでもできるようになると、だんだん事業がよくいき、世の中が楽しくなります。すなわち『論語』の実行が、いつとはなしに利益をもたらすのです。


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本記事は、月刊『理念と経営』2020年12月号「論語と経営――「社長塾」より(44)」から抜粋したものです。

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