『理念と経営』WEB記事

私たちは「家族の愛の象徴」を作っている!

株式会社セイバン 代表取締役社長 泉 貴章

ランドセルの日本シェアでナンバーワンを誇るセイバン。四代目の泉社長は大量生産体制の脱却や販売ルートの見直しを行うなど改革に取り組んできた。さらに近年は保育事業にも乗り出している。創業101年目の老舗企業が改革の先に描く未来地図とは――。

  セイバンと言えば、誰もが「天使のはね」のランドセルを思い浮かべるに違いない。肩ベルトの付け根に入れた特殊な羽根形の樹脂によって、子どもの体にフィットする背負いやすいランドセルを実現した。
 先代の時代に考案されたもので、これが大ヒットし、いまもランドセルのシェア日本一である。
創業は1919(大正8)年。4代目である泉貴章社長の曽祖父が大阪で始めた財布やきせる入れといった革製品の販売問屋がルーツだ。戦後、ランドセルや学生鞄かばんなどの製造を本格的に始め、今年、創業101年になる老舗企業である。

―大学院を出られてサントリーにお勤めになっていたそうですね。
泉 はい。ビール事業、それも開発に携わっていました。

―前職で学ばれたことは?
泉 やはり「やってみなはれ」の精神ですね。新入社員時代から叩き込まれて、これは自分の中に根づいています。本当にいろいろなことに挑戦させていただきました。
 入社3年目に熊本工場の立ち上げに行かせてもらいましたし、第3のビールの商品開発も担当させていただきました。

―そんななかでセイバンを継ごうと思われたのはなぜなのですか。
泉 私自身、会社を継ぐつもりはまったくなかったのです。ところが、叔父から「おまえしかおらん」という話がありました。ちょうど早稲田大学のビジネススクールに通わせてもらっているときでした。経営というものに興味を持ち始めたことも大きかったのかもしれません。
  父の病気も進んでいると聞き、すごく悩んだのですが継ぐことを決めました。

―入社は、確か……。
泉 2010(平成22)年10月です。まず現場を知りたいと思って、工場に通い続けました。驚いたのはランドセルを作る工程の数と働く人の多さでした。ビール工場は完全自動化だったためこんなにも多くの人が工場で働いていることに衝撃でした。
 さらに驚かされたのが半製品の在庫の量です。問屋さんからの受注生産で、注文がきてから最後の仕上げを行います。
 いつどれだけの注文がくるかわからない。当時はランドセル以外の鞄も作っていましたから、それらの在庫が大量にあり雑然としていたんです。

―何か手を打たれたのですか?
泉 なんとか作り過ぎをなくして、在庫を少なくしようと思いました。1つには、それまで作っていた中学や高校のスクールバッグ製造をやめてランドセルにリソースを集約したことです。工場ごとに作る製品が違いましたが、ランドセル1本にしたことで工場間のコミュニケーションもよくなりました。
 また、カイゼン活動を指導している方にも入っていただき、指導を受けながら在庫の数を制限するようにしていったのです。生産の幹部には他社の工場を見学する研修にも参加してもらいました。少しずつ幹部の意識も変わっていきました。

自社で価格と在庫をコントロールする

  3代目である父が急死して、泉氏が社長を継いだのは入社して3カ月目、2011(同23 )年1月のことだった。引き継ぎも満足にできない社長交替だったという。その年、セイバンは初めて売り上げを落とした。他社が発売した大型のファイルが入るランドセルの売れ行きが伸びたからである。

―シェア一位も譲ゆずったのですか?
泉 いえ、それは守りました。だけど、一気に売り上げが落ちました。初めての試練です。困ったのは、セイバンのランドセルがネットで安売りされたことでした。
 当時、15社ほどの問屋さんを通してランドセルを小売店に卸おろしてもらっていたのです。他社のシェアが伸びることで、問屋さんにはかなりの流通在庫が溜まっていきました。それを処分するために問屋さんは安く売るわけです。5万円以上するランドセルが1万円を切って売られる。なかには5000円ということもありました。

―一割以下の価格ですね。
泉 これでは当社のブランド価値が壊れます。それで一軒一軒、問屋さんをまわり、頭を下げて取引をやめさせていただきました。問屋さんの発注で生産するのではなく、自社で価格と在庫をコントロールできるように製造・販売の主導権をこちらに引き戻したのです。そのために問屋はグループ内企業1社にし、直営店もリリースしようと2014(同26)年に一号店を東京の表参道に出し、その後も出店に力を入れていきました。同時に自社のウェブサイトも充実させていったのです。

―顧客と直接つながるチャンネルを増やしていかれたわけですね。
泉 ダイレクトにお客様と接点を持つことで売れ筋のニーズや商品開発に生かせるヒントをつかめると思うのです。直営店での声はすべてまとめていますし、カスタマーセンターもつくりました。

―生産についても大きな改革をされたとお聞きしています。
泉 当時、工場の一番の問題は、何が売れているかわからないままに作っていることでした。平たく言えば、何の根拠もなく男の子は黒を作っておけば売れるやろう、女の子は赤やな、と、どんどん在庫を積み上げていたんです。
 同じ色のものを作るのは効率がいいんです。ランドセルの色に合わせて糸替えなどをする手間が省けます。ところが色は黒や赤だけではなく、青もピンクも、緑もある。黒と赤ばかり増えて、他の色が全然間に合わなくなります。

―何色あるのですか。
泉 その当時でも24色以上ありました。デザインもいろいろあるんです。考えたのはロットサイズを小さくしていくことでした。例えば黒を作ったら、次は青色、その次は赤。ピンクの後は水色というように、いわば多品種少量生産方式に変えていったのです。これが定着するまでに3、4年くらいかかりました。
 とにかく在庫を減らすにはどうすればいいかということを考えて、売れた色のものを補充していくことにしました。これを「需要連動型生産」と呼んでいるんですが、週の販売データを速やかに取って、それを平準化しながら生産・出荷していくことにしています。


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本記事は、月刊『理念と経営』2020年11月号「企業事例研究1」から抜粋したものです。

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