『理念と経営』WEB記事

「食」ビジネスへの転向

インスタントラーメンの発明によって世界の食文化に革新を起こした安藤百福。過酷な環境からはい上がり、自らの手で活路を開いてきた“ミスターヌードル”の決断の瞬間を、3回にわたって紹介します。

極限になれば
人間の本質が見える

「2018年に世界で消費されたインスタントラーメンは約1036億食。1日あたり約2.8億食が世界で消費されている計算に。世界中で老若男女に愛されているインスタントラーメンはもはや世界食」(世界ラーメン協会のホームページより)
 ここにあるように全世界の人々はインスタントラーメンに親しんでいる。
 そして、世界で初めてそれを発明したのが日清食品の創業者、安藤百福だ。彼の事績について本、資料はいくつもあるが、読み込んでいるうちに気づくことがある。
当初、「食」の仕事とはまったく関係がなかった彼がインスタントラーメンの開発にのめり込んでいったのは、投獄と戦争というふたつの悲惨な体験があったからだ。つまり、安藤は悲惨な体験を経て、「食の世界へ進む」決断をしている。
 安藤が生まれたのは1910(明治43)年。日本が統治していた時代の台湾、台南県東石(とうせき)郡樸仔(ぼくし)脚(現・嘉義県朴子市)だった。義務教育を終えて、図書館の司書として働いたが、すぐに退職。繊維や貿易の会社を設立し、資産を築いた。
 太平洋戦争が始まった41(昭和16)年、日本に移り住んでいた安藤は事業を広げ、川西航空機に納入するエンジン部品を製造していた。ところが、そのとき、ある噂が安藤の耳に入ってきた。社員のひとりが会社の資材を横流ししているというのである。軍需品の横流しは死刑にも相当する大罪だ。安藤はあわてて憲兵隊に相談しに行ったのだが、どうしたわけかそのまま、拘束されてしまう。
「横流ししたのはお前だろ」と決めつけられ、四五日間も拷問を受け、自白を迫られたのである。あとでわかったことだが、拷問した憲兵は横流し犯人の親戚にあたり、ふたりが安藤を陥れるために身柄を拘束したのだった。
安藤は投獄されていたとき、「食」の価値に気づいた。
投獄中の食事といえば麦飯と漬物だけ。食器も汚れていて臭いがひどく、とても食べる気になれなかった。安藤が残した食事を同房の囚人が奪い合っていた。あさましい姿だと思った。
しかし、しばらくしてその気持ちに変化が生まれた。
「極限になれば人間の本質が見えてくるという。このとき、私の心は、何か透明な感じで食というものに突き当たった。人間にとって食こそが最も崇高なものなのだと感じられた」
 牢獄ではちゃんとしたものも食べられなかったこともあるけれど、このとき、彼は「食」の価値に気づいた。誤解され、拷問を受けたことに対する恨みよりも、「人間にとって何よりも重要なのは食だ」と痛切に感じたのである。ただし、誤解が解け、無罪釈放された後、彼はすぐに食のビジネスに関わったわけではない。

欲を捨て去ったとき
人は思わぬ力を発揮する

太平洋戦争が終わった翌年、兵庫県上郡の疎開先を整理した安藤は大阪府の泉大津に移ってきた。そこを本拠に新しい仕事を始めようとしたのである。しかし、戦争が終わってから一年が経ったというのに、大阪の町はうつろな目をした飢餓状態の人々であふれていたし、路上に放っておかれた餓死者も見た。
ふたたび、安藤は心に刻む。
「やはり食が大事だ」
「衣食住というが、食がなければ衣も住も、芸術も文化もあったものではない」
 このとき、彼は決断した。
「戦後復興に必要なのは食だ。すべての仕事を投げうって食に転向する」
インスタントラーメンの開発にとりかかったのはその後のことだ。
 ただし、苦難は続いた。GHQ(連合国軍総司令部)から脱税の嫌疑をかけられ、収監された。その後、請われて理事長に就任した信用組合が経営破綻し、その責任を問われて財産を失い、一文無し同然にもなっている。
 思うに、この人の評伝を読むと、頭もいいし、人脈もある。交渉力もある。特に「食」のビジネスでなくとも、また、新製品を発明しなくとも、高度成長期にフィットしたビジネスをやってさえいれば金儲けをすることはできただろう。
だが、彼は食のビジネスに専心した。それはやはり、投獄と戦争という悲惨な環境のなかで「食」を見つめ直し、その価値に気づいたからだろう。

ノンフィクション作家 野地秩嘉
写真提供 日清食品ホールディングス株式会社

本記事は、月刊『理念と経営』2019年9月号「決断の瞬間」から抜粋したものです。

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