『理念と経営』WEB記事

「天才エンジニア」 本田宗一郎との邂逅

元本田技研工業副社長 藤澤武夫
ノンフィクション作家 野地秩嘉

「世界のホンダ」をつくったもうひとりの創業者・藤澤武夫氏。本田宗一郎氏を支え続けた女房役の「決断の瞬間」に、4回にわたって迫ります。

ホンダのふたりの創業者、本田宗一郎と藤澤武夫が初めて会ったのは1949(昭和24)年の8月。
本田は42歳、藤澤は38歳だった。
紹介者は後にホンダに入るが、当時は通産省にいた竹島弘という官僚だった。竹島は戦前、戦中と中島飛行機にいて、そのときから、本田、藤澤のふたりを知っていた。ふたりとも中島飛行機に部品を納めるサプライヤーだったのである。

中島飛行機は戦前、東洋一の航空機メーカーだった。戦闘機の隼は同社が開発したエンジン、機体であり、三菱航空機が作ったゼロ戦も量産した機体数は中島飛行機のほうが多かった。147の工場、26万人の従業員を擁した巨大企業である。航空機を買うのは陸軍と海軍だけだ。買い入れに際して、値段は関係ない。軍はテストして品質のいい航空機だけを採用する。そのため、中島飛行機に出入りするサプライヤーもまた「質のいいもの」を納めなくてはならない。本田はエンジンの部品、藤澤は航空機の備品などを納入していたが、いずれも品質の高いものだった。中島飛行機の社員だった竹島にしてみれば、ふたりは優良品質の製品を持ってくる前途有望の若者だったのである。

ふたりのうち、本田は戦争が終わると、地元の浜松で自転車用補助エンジンを作って売り始めた。

ソニーの創業者、井深大との対談では次のように語っている。
「一番最初は軍の放出物資の小さな通信用のエンジンを(自転車に)くっつけた。これは当時闇屋が盛んだったころで自転車が唯一の足のようなもの。そこで自転車にエンジンをつければ遠くまで闇屋が活動できる。これをつけてみたら意外に具合がいいのでみんながほしいほしいというから作る気になった」(『財界』1972年10月15日号)

一方の藤澤武夫は「あたしアずいぶん仕事を変えたからね」(対談『週刊朝日』1973年)と言うくらい、戦後はブローカー、製材工場など、さまざまな仕事をやっていたが、いずれも成功させていた。藤澤はそれなりのベンチャー起業家だったが、本田と会ったころは福島の二本松で製材工場の経営に専念していた。しかし、東京で旧知の竹島から「浜松にエンジニアの天才がいる」と聞いて、「会わせてくれ」と頼んだのである。
本田に魅了された藤澤は製材工場をたたんで、ホンダに入社する。そして、ふたりは同社を世界一のオートバイメーカーに育てあげ、四輪の乗用車にも進出を決めた。73(同48)年に同時に引退するまで、24年間、最初に会ったときのままの気持ちを持続させた。
2018(平成30)年3月期連結ベースで、ホンダは売り上げ約15兆3600億円、従業員数約21万5000名の巨大企業になっている。

本田社長の参謀ではなく、「対等の立場」で

ホンダの常務になってから、藤澤がやったことは、本田宗一郎と語り合うこと、夢を追い求めることだった。
「藤沢 組んでからっていうもの、1日24時間のうち20時間くらいは二人で…。
本田 語り合ったなあ。
藤沢 夜中の12時ごろ別れて朝の7時ごろまた会って話すわけだ。別れる時がつらかったね。(中略)
そういう状態が2、3年つづいたから、もう一生会わないでも心がわかっちゃったわけよ、お互いに」(対談『週刊朝日』1973年)
わかり合った後、本田はエンジン、バイクの開発に専念し、藤澤はそれ以外の仕事をすべて取り仕切った。

本記事は、月刊『理念と経営』2019年1月号「決断の瞬間」から抜粋したものです。

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