『理念と経営』WEB記事

「電池事業への挑戦」

パナソニック創業者 松下幸之助

事業の全生命を打ち込む冒険的な宣伝方法

「(創業期に)私の会社に革命的な発展をもたらしてくれたのは電池とランプ」

1953(昭和28)年、松下幸之助は雑誌『キング』(講談社)でそう語っている。確かに、電池、照明器具はいまもパナソニックの事業の柱だ。特に電池は乾電池の自社生産から始まり、2017(平成29)年には電気自動車(EV)専門のテラモーターズ社の工場で、リチウムイオン電池セルの生産を始めている。また、同じ年末にはトヨタとも車載向けの電池事業で提携すると発表している。

創業者の幸之助が進出を決断した電池事業は100年間にわたって、同社を牽引しているわけだ。では、どうして、彼は、1931(昭和6)年に電池事業を始めたのか。

それにはさらに時をさかのぼり、27(同2)年に話を戻さなくてはならない。当時、松下電氣器具製作所の製品とは電灯用の「二灯用差し込みプラグ(二股ソケット)」、電球の口金を細工した「改良アタッチメントプラグ」のふたつだった。どちらも部品の延長のようなもので、単体の電気製品ではない。同社初の単体の電気製品とは同年に発売した乾電池の入った角型の懐中電灯で、ブランド名「ナショナル」を冠した「ナショナルランプ」だった。幸之助は「売れる確信をもっていた」。そこで、「事業の余生命を打ち込む冒険」的な宣伝方法を取ったのである。冒険とはつまり、1円25銭だったランプを1万個、タダで、ばらまくことだった。その頃、白米一升の値段は42銭。ランプ代は決して安いものではない。ランプのうち、もっともコストがかかるのは、 乾電池だった。幸之助は乾電池を仕入れていた東京の岡田乾電池工場に赴き、社長相手に必死の説得を繰り広げる。

「岡田さん、ついては中身の乾電池のうち、1万個だけタダでくれませんか。ただし、条件を付けます。今は4月です。年内にこの電池を20万個、売ってみせます。そうしたら、1万個タダでください。その代わり、1個でも20万個に達しなかったら、まけていただかなくとも結構です」電池工業の社長は答えた。

「よろしい。松下さん。20万個を年内に売ってくだされば、1万個は、のしをつけて差し上げます」

ノンフィクション作家 野地秩嘉
写真提供 パナソニック株式会社

本記事は、月刊『理念と経営』2018年7月号「決断の瞬間」から抜粋したものです。

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