『理念と経営』WEB記事
決断の瞬間
2018年2月号
千載一遇のチャンス到来「ビールに挑戦したい」

元サントリー会長 佐治敬三
「やってみなはれ!」
寿屋(サントリーの前身)が初めてビールに挑戦したのは戦前のことだった。創業者、鳥井信治郎は1929年(昭和4)年に新カスケードビール、30年にオラガビールを発売したが業界大手にかなわず6年後に撤退。信治郎は歯噛みして悔しがった。撤退から26年後のこと、2代目の佐治敬三は自宅で静養していた父親、鳥井信治郎の枕元で、ある決意を打ち明ける。
「ビールに挑戦したい」 信治郎は、「人生はとどのつまり賭けや」と言ってから低い声で続けた。「やってみなはれ」
サントリーがビールを発売したのはそれから3年後、信治郎はすでに鬼籍に入っていた。佐治敬三がビジネスで最も大きな決断をしたのは、ビールへの再進出である。進出する理由は2つあった。一つはウイスキーは売れて売れて繁盛していたけれど、経営の柱が一本だけでは心もとないと思ったこと。大きく成長する新事業が欲しかったのだ。
二つ目はウイスキーとビールは隣接しているから製造については自信があった。ともに麦芽と水である。また、当時はすでに家庭に冷蔵庫が普及していた。製氷機の氷でサントリーウイスキーを飲む消費者が大勢いた。佐治がやろうとしたのは同じ冷蔵庫のなかにサントリービールを1本でも2本でも入れてもらうことだったのである。佐治は「いまが千載一遇のチャンス」と思ったのだろう。
だが、当初は大苦戦した。佐治は自らセールスマンとなってビールを売り歩くようになった。「始めたころはサントリーのラベルが付いとるだけで『ウイスキーくさい』と言われてちっとも売れん。バーや酒屋さんへ行ってもセールスは言うに及ばず、配達を手伝ったり、子守をやったり、料亭では下足番をやったり、まあ、たいていのことはやりましたな。そのうちに、うちのビールを扱ってくれる酒屋さんが増えてきて、若獅子会という親睦会をつくったんですわ。ヤングライオンの会。なんでやと言ったら、強いライオンになって、キリンの足を食いたい、と。はい、ネーミングは僕です」
私がそんな話を聞いたのは95(平成7)年だった。同社のビールのシェアは6.7%。首位のキリンビールは47.5%もあった。ところが、2016(同28)年にはサントリーのシェアは15.7%になっている。一方、首位だったキリンビールは業界2位に落ち、シェアは32.4%である。20年間で、ライオンはキリンの足を食べてしまったのだ。
ノンフィクション作家 野地秩嘉
写真提供 サントリーホールディングス株式会社
本記事は、月刊『理念と経営』2018年2月号「決断の瞬間」から抜粋したものです。
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